『カタルシス』を観た(@シネマ下北沢)

昨日、観てきました。客は25〜30人ぐらい。客層は男女半々で、20代後半から上は際限なくといった感じ。シニア層が半数を占めてたのには驚き。少年犯罪に対する問題意識が一番高いのは実はこの世代なのか? 近くにいた初老の男性が「新聞の広告を見て観に来た」と話していたのが新鮮だった。



映画の詳細は以前の日記を参照されたし。んで、感想。


とにかく非常に重苦しい映画だった。テーマが重いから重苦しいのではなく、画から伝わってくる空気が極めて重く息苦しい。しかもそれが冒頭から1時間半に渡って延々と続くわけで、観てるこちらはたまらない。精神的にどんどんどんどん疲労してくる。題材が題材なだけに、タイトルを聞いた当初は「かっこつけた題名だなあ」と思ったものだが、その認識は映画を観てる最中に変わっていった。


画から受ける重い閉塞した空気とは、児童連続殺傷事件を起こした少年とその家族が抱えてしまった罪の重さ、周囲からの見えない圧力、出口の見えない閉塞感に他ならない。監督はそれらを、説明や台詞を極力排除した演出により、この映画館という密閉された空間の中で*1延々と観客に体感させ続けるのだ。何故少年が犯罪を犯したのかという理由について、劇中では一切説明されない。提示されてるのは犯罪を犯したという事実のみ。しかも延々と映し出されるのは、終始自分の内に引き篭もり家族の輪に入ろうとしない少年と、同じく内に篭もり沈黙し続ける家族の姿ばかりであるため、少年と家族、そのどちらにも感情移入しにくい(特に、父親の振る舞いをみると「息子がこんなになったのはお前のせいでもあるんじゃないのか?」といった怒りすら覚える)。また、劇中には、彼らを非道に責めるマスコミや白い目で見る近所の人が登場しないため、反動から彼らに同情的な気持ちを抱くというような作りにもなっていない。にもかかわらず、彼らが感じている息苦しさ、閉塞感、圧迫感だけは我がこととして体感・共有させられるため、「誰かあの家族にカタルシスを!」といった気持ちになるよりも前に「誰か私にカタルシスを!」と叫びたくなってしまった。


以下、ネタバレします。

事件から3年で仮出所することになった少年・ナオキ(尾上寛之)。少年院を出てゆく彼の表情を見ていると、彼にとってこの3年間は“世間から隔離される”という程度の意味合いしかなかったのかと思わされる。彼の心は、3年前とおそらく何も変わっていない。それでもにこやかに送り出す刑務官たち。迎えに行った父・由紀夫(真那胡敬二)は、ナオキを車に乗せると、母・妹・弟が待つフェリー乗り場へと車を走らせる。母・永遠子(山口美也子)の郷里である島へ皆で帰省するためだ。島はナオキにとっても幼い時を過ごした思い出の場所でもあり、危篤の祖母や親戚たちが待っている。出航時間まで車の中で待ち続ける家族。長い沈黙が続く。耐え切れず母親がナオキに話し掛けるが、感情が高ぶりすぎて父にたしなめられる。家族の間に漂う重苦しい空気は、フェリー内でも続く。特に、絶え間なく響く船の鈍い振動音と、家族の背後に存在する窓のない一面肌色の壁が、観てるこちらに言いしれぬ圧迫感を与え、非常に息苦しい。翌朝島に着くと、永遠子の弟夫婦(東孝川上麻衣子)が出迎えていた。鬱屈した船内から飛び出し、明るい島の風景を目にすると、観てるこちらの気も少し休まる。人目につかない道を選び、家族は海沿いの寂れた漁師小屋に案内される。明るいうちは海岸を出歩くなと言われた家族は、日々を暗い小屋か林の中で過ごす。
10代の妹・カスミ(斉藤麻衣)は事件のショックで口が利けなくなっており、時折何かがフラッシュバックしては怯え、錯乱する。ナオキは部屋の隅で終始うつむき、家族の輪に入ろうとはしない。食事を勧めても家族と共に食卓につこうとはしない。島に来てからというもの、父・由紀夫はすっかり内に引き篭もってしまった。父親としての役目を、叔父・悟史にとって替わられたせいもあるのだろう。カスミが錯乱しても、無関心で一人鍋をつつき、叔父を呆れさせた。まだ幼い弟・スバル(大高力也)を除けば、家族の中で努めて明るく振る舞おうとしていたのは母だけだった。しかし彼女も、時折激しく感情を吹き出し、子供たちを怯えさせる。一度は錯乱してナオキを絞め殺そうとするも、自ら我に返り事なきを得る。すぐ側にいた父は、突然の母の暴挙に身体がこわばって動くことができない。不甲斐ない父。父親としての責任を放棄し、自分の殻に閉じこもる父に「義兄がそんなだからあんなに優しかったナオキがこんなになってしまったんじゃないのか!? なんでちゃんと子供と向きあわん?」と激しく責める叔父。父親の威厳などはもはや見る影もない。林の中、ひとり座り込む父の表情は、一家心中でもしでかしそうなほどに虚ろ。また幼いスバルにもよくない兆候が…。小屋につながれてた子ヤギの頭を小枝で延々と叩き続けるスバル。嫌がっても尚叩き続ける姿に、観てるこちらは、少女を殺したナオキの姿をダブらせる。


ここまでで約1時間半。身内の犯した罪の重さに押しつぶされて、静かにゆっくりと家族が壊れてゆく様を延々と見せられる。出口などどこにも見えない。圧迫感、閉塞感、重苦しさで、観てるこちらはただただ息が詰まり、「早くこっから出してくれ!」と叫び出さんばかりに、タイトル通り“カタルシス”を強く渇望するのだけれど、映画を観てる限り、この先に待ってるのは一家心中ぐらいにしか見えない。重みに耐えきれずぺしゃんこになってお終い…。
そんな重苦しい空気の中でも、観てるこちらが息抜きできる瞬間はある。それは、時折挿入される島の美しい風景と、叔父一家の団欒。特にこの叔父は、ナオキの父とは対照的に、芯が強く包容力溢れた魅力的な人物で、常に観てるこちらの心の拠り所になってくれる頼もしい人なのだ。

危篤だった祖母の死を境に、父母の心に変化が訪れる。島独特の葬儀により海の向こうの世界(=あの世)へ還る祖母を見送った帰り、高くそびえるサトウキビ畑の小道を母と二人きりで歩いてた父は、突然母の手を引き畑の茂みの中へと消えていった。茂みからは母の楽しそうな笑い声が響く。久しぶりのセックスに興じる二人。二人の気持ちに呼応するかのように、雲の切れ間から差し込んだ光がサトウキビ畑を明るく照らし出す。家に戻った家族が、穏やかな表情で語らいながら海辺を眺めていると、突然ナオキが海辺に向かって走りだした。その先にはずぶ濡れた姿で意識を失い倒れてる妊婦の姿が。病院で処置をまつ家族と叔父夫婦。処置室から出てきた看護婦は、腕に女の赤ちゃんを抱いていた。母親も無事だと聞き、皆安堵する。皆に促され、哺育室までついてゆくナオキ。生まれきた赤ん坊の生命力に触れ、初めて自分の犯した罪を自覚したナオキは、海辺で狂ったように叫びもだえる。止まっていた針が動き出した。
久々の一家団欒。ナオキも家族と共に食卓につき、白飯を口いっぱいに頬張る。それを見て、父も口いっぱいに白飯を頬張る。その夜、母と父とナオキは川の字になって床についた。母の歌う子守歌を聴きながら眠りにつくナオキ。これでようやくこの家族はスタートラインに立ったんだなと思った次の瞬間、家の前で、雨の中、ぐったりして動かなくなったナオキを背負い立ちつくす父と、傍らに寄り添う母の姿が映し出される。駆けつけた叔父は3人の姿を見て膝から崩れ落ち、丘の上から鐘を鳴り響かせる。


直接的な描写はないが、おそらく眠りについたナオキを父母が絞め殺したのだろう。この展開には正直唖然とした。さっきまでの生きる意欲にもえた家族描写はなんだったんだと。その後、快晴の海辺で3人を見送るカスミ、スバル、叔父一家の姿が映し出される。3人を追って波際へと走り出したカスミは、途中で振り返り、笑顔で「スバル!」と叫ぶ。そんな彼女の晴れ晴れとした姿で映画は終わるわけだが、直接的に罪を問われるべき3人の死により、罪無き妹弟が心的外傷から解き放たれ、心の安寧と言葉を取り戻すっていうのはなんかおかしくないかい? 個人的に「死ねば済む」という考え方は嫌いなので、光明が見えた直後に死を選択した父母には逃げられた思いがした。釈然としない。そりゃあ、叔父さんだって膝から崩れるよ。安心させといてそりゃないだろ。叔父さんは、どんなに辛くても姉家族には生きてその苦しみを背負うことで罪を償い続けて欲しかったのに、そのためにサポートの手を差し伸べたのにそれがなんでわからないかなあ。公式の【STORY】によれば、カスミはナオキの犯行現場を目撃したショックで口がきけなくなったらしい。しかし劇中での描写がないため(もしかしたら私が見過ごしただけなのかもしれないが)兄が人殺しだと知ったショックで口がきけなくなったようにしか見えず、トラウマの強さを描写するにしては条件付けが浅く感じられ、ラストでカスミが言葉を発するシーンを観ると、これを撮りたいがために作られた設定なのではと思ってしまった。


上映後には、叔父役を演じた東孝氏のトークショーがあったのだが、用事があったため聞かずに劇場を後にした(実はこの後、パンフレットで東氏のキャスティング理由を知り、聞かなかったことをものすごく後悔するわけだが…)。次の目的地への車中で、父母が何故死を選択したのかずっと考えた。この映画に被害者側の人間は登場しない。出てくるのは加害者側の関係者ばかり。もし自分が加害者の立場から被害者の立場を想像し、罪を償う方法を考えたとしたならば、やはりどうやったって「自らの死をもって償う」という方法にしか辿りつかないんじゃないかと。どんなに謝罪の言葉を尽くしても、損害賠償を払っても、失った命が戻ってこない限り、被害者やその家族は自分たちのしたことを許してはくれないだろう。失った命と等価の代償を払おうとするならば、やはり自分たちの命を差し出す以外に方法はないように思える。でもそれは間違ってる。黙って死ぬなんてやはり勝手だ。本人たちはそれで全てがお終いに出来るかも知れないが、残された者はお終いになんてできない。


監督は「自分の中にある加害者意識がこの映画を撮らせた」と語っている。監督が神戸の事件を起こしたS少年と同じ郷里*2らしい。それは、宣伝用の写真を撮った藤原新一のレビューで明らかにされている。同じ島の人間、しかもたった14歳の少年が犯した連続殺人・・・


加害者側にたった人間が被害者側の気持ちを代弁することは難しい。多少なりとも願望が混ざるからだ。それを意識してかどうかは知らないが、監督は被害者についての描写を切り落とし、少年や家族の口から、被害者への想い、感情などを語らせることもしなかった。父母や少年が自分たちのことだけでいっぱいいっぱいで語れる状態になかったというのもあるが、監督自身が語る言葉をもたなかったからなのかもしれない。語れるような心の状態になったとき、父母は死を選択した。パンフレットを読むと、<生を強く意識したために他者の死=己の罪が強く意識させられ死を選んだ>ということらしいけど、、、それは嫌だ。

*1:しかもシネマ下北沢は換気があまりよろしくないので、劇場内の空気も澱み気味。いい相乗効果が得られている(苦笑)

*2:映画の舞台にもなった島