父と癌

先週、父が亡くなりました。死因は肝細胞癌。4ヶ月間にわたる自宅療養の末のできごとでした。


父が癌と診断されたのは昨年末。2ヶ月前から体調不良を訴え、定年退職と同時に入院。検査の結果、肝臓全体に癌が散らばってることがわかりました。医師の診断は余命1ヶ月。早ければ2,3週間のうちに吐血して亡くなるかもしれないと、まさに末期状態でした。手術は無理。抗がん剤治療を行っても、余命を縮めるか、わずかに延びた余生を病院で寝たきりのまま送ることになるとのことで、「体が動けるいまのうちに、やりたいこと行きたいところがあるなら行動に移した方がいい」と言われました。


昔から「寿命60歳」と宣言してた父。言霊の力はすごいというか、あまりのドンピシャ具合に、家族一同「ドラマみたい」と苦笑いを浮かべ涙ぐんでいました。


医師から告知を受けた晩、肝臓の病気だということ以外まだ何も知らない父を病院に残し、実家で告知会議が行われました。下痢と38度近い熱が1ヶ月以上も続いてたのに、「最近腸の調子が悪いんだ」「ちょっと頭がふらつくかな」などと呑気にほざいては、周囲が医者に行けと勧めても「退職したら暇はたっぷりできる。仕事の引き継ぎが終わったら病院へ行くよ」と、身体のだるさを精神力で乗り切った人です(これには医者も「普通の人が今のお父さんのような状態だったら、辛くて仕事なんか出来ないよ」と驚いていました)。このまま知らせずにおけば「やりたいことは体調がよくなってからすればいいじゃないか」と言うに決まってる。でも良くなる可能性はないんだよ、お父さん。これ以上時間を無駄に使わせるわけにはいかない。告知しなきゃ本人が可哀想だ。家族の決断に迷いはありませんでした。


父に告知するまでの数日間、精神的にはとてもしんどかったです。この4ヶ月間で一番しんどかったかもしれない。うちは癌家系なので、身内が癌で死ぬことについては昔から覚悟がありました。だから癌だと聞かされても落ち込んだりなんだりという精神構造にはなっていないのです。「いよいよ来たか」と逆に気が引き締まりました。それは父も同じだと思います。ただ、「1ヶ月という余命を受け入れられるかどうか」、この一点についてはわかりませんでした。「癌になったらきちんと告知してほしい」と話してた父ですが、余命1ヶ月というのは想定外のはず。いくら気丈な父といえど、現実逃避したり自暴自棄になってもおかしくないと思いました。でも取り乱す父なんて生まれてこの方見たことないので、その瞬間を考えるととても恐怖でした。父が死ぬことより、死を受け入れてくれなかったときのことを考える方が怖かった。気を張ることが出来たのは、家族の中で一番しっかりしてるのは自分だという責任感と、残された期間の短さでした。1ヶ月ってほんと短いんです。生きられるのは1ヶ月かもしれないけど、まともに動ける期間はその半分かもしれない。一日たりとも無駄に過ごしてる暇などないのです。だから、もし父が無気力状態に陥いるようなことがあれば、引っぱたいてでも現実世界に引き戻し、最期の道を選択的に悔いのないよう生かさなきゃと思いました。それが長子である私の務めだと。


告知の日。子供たちがいたら泣きにくいと思い、母のみ立ち会わせ、担当医師に病状を話してもらいました(ただし余命は3ヶ月とごまかして…)。数十分後、別室で待っていた私たちを母が呼びに来ました。


「お父さん、全然動揺しなかったよ。涙もみせず聞いていた。それ見て先生のほうが涙ぐんでたくらい。いますぐ退院するって。荷物まとめるから手伝って」


父の元に行くと意外にも憔悴した感じはなく、どちらかというと張りつめた気が一気に抜け落ちた感じというか、穏やかな表情で椅子に座ってました。「まあ、仕方ないやねえ」と呟くと父は静かに語り始めました。


「いままで話したことなかったけど、死については昔からずっと考えていたんだよ。私にとって死ぬというのは境界線をひょいと跨ぐぐらいのもの。向こうには既に家族が何人も行ってるので恐怖感はない。自分が行ったときちゃんと彼らに会えるのかどうかは分からないけどね」


それが父の死生観でした。そして私たちの方を見ながらこう言いました。


「向こうがどんなところか伝える術があれば伝えたいんだけど、こればっかりは行ってみないとわからないからねえ。とりあえず墓参りだけは行っておきたいので、飛行機の手配はすぐにしておいて。葬儀の手配は帰ってきたら自分でやるから」


子が子なら親も親というか、この切り替えの早さは何でしょう。またしても泣き苦笑いです。



私が「死」について考えるようになったのはオカルト好きから派生したものだけど、父にはもっと現実的な動機付けがありました。実は、数十年前に肝炎を患ってるんですね。しかも直後に兄弟を肝炎が元の肝細胞癌で亡くしてる…。それはそれはものすごいショックだったらしく、そのとき強烈に自分の「死」を意識させられたそうです。以来「死」についていろいろと考え始め、いつ死んでも後悔しないよう、自分の行動には常にけじめをつけながら生きてきたそうです。「人としての幸せは一通り経験させてもらったし、子供も成人し、孫も出来、創業から関わってきた会社も若い連中に引き継いだ。だからこんな結果になっても悔いはない」と語る父は、残された時間を病院のベッドで過ごすより、できるだけ普段と変わらぬ生活を送りたい、ということで退院を即決しました。


念のため別の病院でセカンドオピニオンも受けましたが診断は同じでした。「痛みだけは耐えられない」という父の希望に沿うべく、ホスピスを探したところ、幸いにも車で30分ぐらいのところに施設がみつかりました。自宅に看護士さんを派遣してもらいながら、在宅で緩和ケアを行う日々。もちろん漢方や食事療法などの代替医療はいろいろと試してみました。


根が完璧主義なせいか、退院した翌日から綿密に残り3ヶ月のスケジュールを立てる父。見かねた母がいろいろと急かしたため、余命3ヶ月という嘘は数日でバレてしまいました。嘘がバレた時、母はこう叱責されたそうです。


「私の人生なんだから、そういう大事なことはちゃんと言ってくれなきゃ困るでしょ。こっちは3ヶ月って言うから1月半ばに入院ぐらいの気持ちで計画立ててるのに、1ヶ月じゃ全然間に合わないじゃないか。最初から計画練り直しだよ」


そりゃそうだ。自分も同じ立場ならそう思う。でもあの時は、父さんが「余命1ヶ月」という言葉に耐えられるかどうか自信なかったんだよ。疑って悪かった。どんな状況にあってもやはり父さんは父さんだった。つーか、60歳寿命すらも計画通りなのに、最後まで自分の計画通りじゃないと気が済まないなんて、らしいというかなんというか。。。


幸いにも肝臓以外に転移はなく、痛みによる苦しみはほとんどなかったようです。癌なのに痛みがないなんて、そんなこともあるんだなあと不思議な感じ。腹水がひどくなるまでは食欲もあり、体力はかなり落ちてるけどまだまだ自力で動ける状態。唯一の楽しみが「食」ということで、毎週のように家族そろってグルメ三昧しました。家庭内に悲壮感はなく、2月末に「最期の贅沢だ」って市内の高級レストランに行ったときも、シェフに「今日はなんのお祝いですか?」と言われ家族一同苦笑いしたほどでした。


ホスピスでの生活についていろいろと説明を受けてたにもかかわらず、入院したのは最期の2日間のみでした。モルヒネを使ったのもそのときだけ。死ぬ数時間前まで意識のはっきりしてた父は、葬儀や保険に関する指示をいろいろと出してました。でもそろそろ終わりだと感じたのか、家族全員を枕元に呼び、一人ひとりに言葉を残した父。その数時間後、会話するときですらずっと閉じていた目が突然パッと見開かれ、同時に呼吸が止まり、そのままゆっくり瞼を閉じて還らぬ人となりました。


4月からは心機一転、皆が新しい気持ちで前に進むにはいい時期だとでも思ったのでしょうか。会社人間らしく、年度が替わる3月いっぱいで自らの人生に幕を降ろした父。葬式は宣言どおりほぼセルフプロデュースで、参列者の名簿も作ってありました。葬儀社との打ち合わせは、死期を悟った父に急かされ亡くなる前日にあらかた済ませてあったので、自宅への搬送、通夜、葬儀の進行と、すべて滞りなくすみました。


葬儀の日は快晴。せっかくだから桜で送れないかなあと思ってたところ、火葬後に行った会食会場の桜だけはちゃーんと咲いてくれて嬉しかったなあ。



父の死から数日が経ち、一番思い出すのはやはり死の瞬間でした。大きく見開かれた父の目、今でもハッキリと覚えています。瞳孔全開の瞳は黄疸で真っ黄色だったけど、涙でキラキラと潤いとてもキレイでした。「まるで歓喜の目みたいだったね」、そう漏らす家族。目を見開いたまさにその瞬間、父は向こうの世界とつながったんだと思います。いったい向こうで何を見たのか。それが分かるのは、まだまだ先のこと。私だって60までは意地でも生きるんで。