『キリエのうた』は若い頃に見たらもうちょっと寓話として受け止められたのかもしれない

岩井俊二監督の新作『キリエのうた』を観た。有名すぎる脇役陣のキャスティングはノイズが大き過ぎて集中力削がれたけど、メインキャストと松浦祐也・七尾旅人はとても良かったし、アイナ・ジ・エンドの力強い歌声には泣かされた。



ただ、、、主にルカの姉ちゃんなんだけど、10代の頃だったらファムファタルな存在として何も考えずに受け入れたのかもしれないけど、現実的に見ちゃったんでさらっと流せずモヤモヤした。


なんでかというと、、、


↓↓↓↓↓以下、ネタバレ↓↓↓↓↓



最初は単なる魔性の女だと思ったのよ。世間知らずなお坊ちゃんが魔性の女にひっかかり、若気の至りで熱に浮かれて取り返しのつかないことになるも、贖罪の相手を失い後悔の日々を送る。彼を苦しめるために存在する魔性の女。それが姉キリエ。無垢な妹ルカとはあまりにイメージが異なるため、アイナが妹ルカと姉キリエの二役をやることもノイズにしか感じず、「これ絶対、別の役者にやらせた方がいいのになんで二役?」と思いながら見ていたんだけれど、震災の日の姉キリエの言動を見て印象が変わった。なんというか、、、姉のキリエは軽度の知的障害だよね。そうにしか見えないんだけど、となるとだよ、彼女が性に奔放なのは、10代の彼女に対してそういう風に振る舞う大人が周りにいるか、家族が性的にオープンな宗教を信仰してると考えるのが妥当で、それでいて夏彦は全然そのことに思い至る感じもないし、令和にもなって高校生役なのにやたら下着姿にさせられるアイナや、襲われた時のルカの言動が危うすぎて「キリエだけじゃなくルカもなの?」と二重三重にモヤモヤさせられた。


そういえば、昔、Mr. Misterていうバンドがあって、彼らの歌う「Kyrie(キリエ)」ていう曲がめちゃめちゃ好きだったんですよ。アルバム買うぐらいに。歌詞カードが手書きの筆記体で全然読めず、耳コピで歌詞書き出してよく歌ってたんだけど、

この曲、冒頭やサビで「Kyrie eleison(キリエ エレイソン)」ていう歌詞が繰り返されていて、長らく「キリエ=女性の名」だと思い込んでいたのね。ところが今回改めてその意味を確認したら、キリスト教でよく唱えられる「主よ、憐れみたまえ(キリエ エレイソン)」という意味だった(汗)。つまり、『キリエのうた』は「主=キリエ」が罪深き人々のために憐れみの歌を歌うという設定の映画であり、

そこから逆算し、キリエに憐れみを懇う「罪深き人物」として配置されたのが、イッコ(広瀬すず)と夏彦(松村北斗)ということになる。故に、アイナがルカと姉・キリエの二役を演じたのは、育ったルカが姉に瓜二つだった方が夏彦の苦しみをより大きなものにできるし、瓜二つだからこそ傍に置いておきたかったし亡き人の代わりに償いたかったのだろうということで二役を演じる必然性については納得した。


キリスト教をベースにしているとなると、妹ルカの「ルカ(漢字で「路花」と書く)」という名も、使徒パウロに同行しのちに福音書を書いたルカが元ネタということになり、夏彦が医学部を目指していたのも元ネタのルカが医師だったからということになる(聖路加国際病院の”路加(ルカ)”はこのルカが由来。“セイロカ”て読むんじゃなかったのか!)。加えて、元ネタのルカがユダヤ人ではなく異邦人(ギリシャ人)だったから幼い妹ルカは「異邦人」をよく歌っており、ルカの書いた福音書に「木にのぼる人の家にイエスが泊まった」という話が出てくるから幼きルカは木に登った…なんてことになると、医学部いかず牧場で働くとか、学費支援打ち切られて詐欺師に転向するとか、いい大人がフェス開くのに使用許可証も取らず開き直ってるのとか、ところどころに感じる強引な設定にも実は全て元ネタがあり、それらを物語に組み込む過程でうまく馴染み切れてないのが強引さを残す要因になってるんじゃないかという気がして仕方がない。


ネタバレ終了



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