鵺的トライアルvol.2『天はすべて許し給う』観劇(@コフレリオ新宿シアター)

鵺的トライアルvol.2『天はすべて許し給う』を観る。歌舞伎町の奥にある小劇場、コフレリオ新宿シアターまでのみちのりが、ホストの看板連なる通りでなかなか新鮮(いまのホストのビジュアルって完全に2.5次元俳優の世界)。今回は映画方面で事前に馴染みのあった『トータスの旅』の湯舟すぴかさんと、『ケンとカズ』の江原大介さんも出演していたんだけど、江原さん演じるストーカー男・和田の人物造形がすっごいリアルだったことだけは強く言っておきたい。映画『ヒーローショー』の感想(こちら)でも書いたけど、自分も一時期ああいう理解不能DQN思考の人と一緒にトラブルに見舞われ共通の敵と対峙するために共闘戦線を張ったことがあるので、普通に暮らしていれば絶対に知り合うことすらなさそうなタイプの人と不意に仲間関係になってしまったときのああいう感じよくわかる(苦笑)。理不尽なくせに筋の通らないことが嫌いっていう。ああいう人にロックオンされたらどうしたらいいんだろうねえ。やっぱ合気道習っておこうかw。歪んだ認知世界を表現した舞台美術も素晴らしかったし(最後の照明によって錯視が解除された瞬間とか「やられた!」てなった)、公演を重ねるたびにどんどん好きになる千田実さん(CHIDA OFFICE)の照明が今回はことのほか印象的だった(のぞき窓の【観る者/観られる者】同時表現とか、壁に浮かび上がる影とか)。ラストってあのあと絶対みんなでOUTしたよね。なんかもう目に浮かぶもん、光景が。もしここに暗黒少女がいたら、どうやって和田と戦ったんだろう。小劇場という狭閉空間における暴力シーンとその効果についてまた考える。公演の感想まとめはこちら、当日券の情報はこちらです(公演は2/13(火)まで)。


追記:全公演が終了したので舞台美術についてもう少し書き足す。舞台の床はたぶん傾斜してなかったと思うんだけど、舞台奥にセッティングされたセットの壁の上辺が上手から下手に向かって下向きに傾斜し、壁の中心に引かれた横軸ラインがそれとは逆向きに傾斜してるせいで(公式の画像で伝わるだろうか)、芝居中ずっと、ある種の錯視効果が起きていたんだよ。ひとつは上手の空間が下手より広く見えること。ほんとに狭い舞台なんで、こういう空間の見せ方もあるのかと感心したんだけど、もうひとつとても興味深かったのは、地面が下手から上手に向かってゆるやかな下り坂になってるように見えるってこと。実際は壁のラインが傾斜してるだけなのにまるで壁ではなく地面の方が傾いているように見えるのね。あの錯視効果ってどのあたりの席まで効力発揮してたんだろうか。前から2列目で見てると全体的に見上げる形になるせいか、そりゃものすごい効果で(苦笑)、頭では錯視だってわかっていても、ふとした瞬間に「こんな傾いてる舞台で役者さんもやりにくそ・・・・いやいや、別に傾いてないから。それ錯覚だから(汗)」と何度も騙されそうになった。物語自体がストーカーっていう愛情や行為に対する認知のゆがみから起こる病理を扱ってるだけに、それを表現するにはこれ以上無いセットだったんだけど、加害者と被害者が対峙するクライマックスで、長らく続いてた錯視がふいに消えるんだよ。舞台を横断していた照明が下手側だけを照らす、ただそれだけで、地面は傾いてないという正しい認知世界がふいに戻ってきて「うわあ、やっぱ傾いてるのは壁の方じゃん!」てなった。鵺的の美術でいままで一番好きだったのは『丘の上、ただひとつの家』に使われたすごくいびつな形の「椅子」だったんだけど、あのときもいびつな家族をテーマにしていた作品だったので、すごくいびつだけとちゃんと椅子としての機能を果たしてるその椅子が舞台上にあるだけで、「この家族は大丈夫。いびつだけどちゃんと家族として機能してる」っていう安心感があったんだよね。それに匹敵するぐらい今回の美術もうならされました。


ちなみに次回公演は9月12日(水)〜18日(火)です。tsumazuki no ishi × 鵺的 合同公演『死旗(しにはた)』(作:高木登(鵺的) 演出:寺十吾(tsumazuki no ishi ))。場所は下北沢ザ・スズナリ
関連:Interview vol.2 『縦横無尽に照らす男 ―千田実の巻 前編』 | Interview vol.2 『縦横無尽に照らす男 ―千田実の巻 後編』



追記2:あのブラックホール。忘れた頃にまた鵺的で登場しないかしら。被害者はみんな欲しいと思ってるよね。あれ以外にメンタル面での安寧を手に入れる方法(加害者や第三者からの脅威を永久に消す方法)があるとは思えない。映画はよく観るので、特に恐怖映画や3D映画を観たときにスクリーンと客席の境界についてはよく考えるのだけど(私の長年の悲願は「貞子をスクリーンの外に出すこと・・・といってもそれは無理なので「出てきた!と観客に錯覚させること」でありそこにいま一番近づいてるのが去年の鵺的トライアルvol.1『フォトジェニック』なのよ)、鵺的の舞台を観ると、彼岸と此岸の境界、現実と虚構の境界、舞台と客席の境界、そしてその境界を越えてくるという行為について脳みそがぐるぐる考え始める。初期の頃から鵺的で表現されてきた、小劇場という狭閉空間における暴力的なシーン(見る/見られる、怒鳴る、大きな音を立てる)とその効果についてもぐるぐる考える。あれより劇場が大きくなると、ここまでの効果はきっと出ないんだよね。怒鳴り声が「大きな声」ではなく「怒鳴り声」として生理的に捉えられる距離、身体の大きい人が出てきたときに生理的に大きいと感じられる距離。上演中に舞台上の脅威が客席にまで飛び出してきて我が身に降りかかったときに逃げるのが困難だと生理的に思える物理的空間。「共感性羞恥」の恐怖版って心理学用語でなんて言うんだろう。それを呼び起こす空間としては最適なんだよ。小劇場という【空間】には、ここでしかなしえないことが確実にあり、可能性を感じる。