「何故」という問いには必ず「答え」を用意する必要がある

以前に↓こんなエントリーを書いたことがある。

これが生じることは観客にとっても作り手にとっても不幸なことで、できれば撲滅したい。「意味不明」という感想に出くわすたびにこれが生じる原因を考えるのだけど、『輪廻』『サイレン』『水霊』と観てきてようやく答えの端っこを掴めたような気がするので書き記しておく。


といっても、これから映画を観に行くので思いついたことだけ書き逃げ。

  • 「何故」という問いには必ず「答え」を用意する必要がある→じゃないと客は満足しない
  • 「答え」が用意できないなら「何故」と問うな
  • 客観的に見れば「意味不明」な事態、それを観客が許容できるのは劇中で誰も「何故」と問わないからだ(・・・たぶん)
  • 提示された疑問は解決したくなるのが人情。解決しないまま放置されるとストレスが溜まって他のことが見えなくなる
  • 「問う」だけで「答え」を出さないのは作り手の怠慢(と受け取られる)
  • 「何故」を追い求めることはできなくても「何が起こってるのか」を追い求めることはできる
  • 「何故」を追い求めなくても「何が起こってるのか」を追い求めるだけで同じ効果を得ることができる
  • 「何が起こってるのか」という問いに対する答えを生み出すのは「何故」の答えを生み出すよりはるかに容易い
  • 一定の満足を得た後に出される「何故」なら、劇中で答えを出さなくても許容して貰える(可能性は高い)


『水霊』は「何故」を問わずに「何が起こってるのか」だけを問い続ければこれほど不満が出ることはなかったのではないか。「何故」と問うなら必ず「答え」を用意しなければならない。そうでなければ観た者に必ずや不満を残す(ただし、「何故」という問いかけをしていたことを忘れさせるほどのインパクトあるオチが用意できるならば別)。出された答えがたとえ間違ったものだったとしても、出したその瞬間さえ見破られなければいい。とりあえずそこで客はいったん満足する(好例『リング』)。
例えば、諸星大二郎伊藤潤二の作品などは客観的に見ると意味不明な話だらけだ。しかし誰もそれに「答え」を求めようとはしない。あるがままに受け止め満足する。それは、起こった事象そのもののインパクトが強すぎて「何故そんなことが起こるのか?」という理由を問うことを忘れてしまっているからではなく、目の前で起こってる事象について劇中の人物が誰も「何故?」と問わないから、それに理由があることに読んでる誰もが気づかないだけではないのか(注:検証してないので突っ込まないで)。