『狂気の海』を観た(@ユーロスペース)

ほんとは感想とは別枠のエントリーで書こうと思ったんだけど、結論が出なかったのでこっちで書きます。


映画の詳細は以前の日記を参照。


「スクリーン越しに映画を観る」という行為は、他人の生活や人生をマジックミラー越しにのぞき見する行為に近い。故に、映画の中に存在する人物たちにスクリーン越しに見てる観客の存在が気づかれることはまずない。まず、無い。ところが「幽霊」という存在は別格で、虚構の中に存在してる創作物のクセに、スクリーンやテレビ画面といった「虚構と現実を隔てている物理的な壁」を軽く飛び越え、観客の住む現実世界にまで侵食し、時にリアルな存在としてとどまり続けようとする。彼らは虚構の世界に暮らしながら、何故か現実世界の人間の「存在」をスクリーンの中から認識し、虚構の中の人間だけじゃなく、それを観ている現実世界の人間すらも攻撃対象と定め襲いかかってこようとする。まあ、そう感じるのは、心霊という存在自体が「イマジネーションの産物」であり、虚構と現実をわける壁を無効化させやすい、いや、壁自体が始めから存在しないからだと思う。


ところが、中原翔子演じる「首相夫人」は違ったんですよ。この人は幽霊なんかじゃない。人間です。なのに何故かこの人だけは、精神科医にカウンセリングを受けてる時から、自分の行動の一挙手一投足をスクリーンの向こう側にいる誰かに見られてることに気がついてる。そして気づいてるクセに気づかないフリをして、延々と己の主義主張を語り続ける。でも傍で聞いてる首相(田口ロモロヲ)はそのことにまるで気づかず、夫人は自分やその場にいる人間にだけ向かって話してると思ってる。秘書官も医師も同様。あ、でも、長宗我部陽子演じるライス捜査官も気づいてるっぽい。夫人ほどはハッキリしないが気づいてるっぽい。


でも夫人は、スクリーンの向こう側に存在する第三者の存在にめちゃめちゃ気づいて意識しまくってるクセに絶対目を合わせようとはしないんだ。ライスにやられてるときに一度でも目配せし助けを求めてくれれば、虚構と現実の垣根を越えて共闘できたのに。


で、なんでそんな気づいてるように見えたのか考えてみた。最初は劇場のせいじゃないかと思った。本作は、ユーロスペース2(受付奥の大きい方のスクリーン)のスクリーンを背にして左側最後部(だったかな?)で観賞したんだけど、ここは客席と同じ高さにスクリーンがあって、登場人物を正面からとらえたカットなんかを端の最後部あたりから見ると、スクリーンの中の人物と客席がちょうど同じ高さで対峙しあってるように見える。特にバストアップのカットなんかは、首相夫人がいる部屋の隅に文鳥の入った鳥かごでもかけられていて、かごの前で語りかけてる夫人を文鳥目線で見たらこんな感じに見えるんじゃないかっていう高さ・距離感で、鳥かごの扉を開け、スクリーンの中から客席に手を伸ばし、文鳥(=観客)の一人でもつまみあげて丸飲みにしてくれればいいのになんて妄想しながら楽しむことができた。


ところが劇場のせいだけかっていうとそうとも言いきれない。パンフに載ったスチール写真を見ても、映画で見て気づいてるように感じとれたカットは写真でもやっぱり気づいてるように見えるから。だからたぶん照明の照らし具合や、女優さんの顔立ち(表情)、カメラアングル、そういったものが総合的に作用してるような気がする。


参考までに↓こちらが予告編。

このサイズだとダメなんだよなあ。Youtubeで直接見た方がまだいい


ちなみに高橋監督の前作『ソドムの市』ではまったくそんな感覚にならなかった。Youtubeにある予告をいま見返しても同じ。


正面からのバストショット+照明+女優の顔立ちor表情(芝居)、この混合及びバランスが一番重要な要素で、スクリーンの大きさ(and客席との距離感、高さ)によって効果が増幅されていくって感じなのかなあ。でも首相夫人を演じてるときの中原翔子さんに至っては、もはや後ろ姿だけでも気づいてるように見えるのでよくわからん(女王を演じてるときは全然気づいてないっぽいのに)。



ああ、舞台か。舞台ってまんまそうだよね。目の前にいる大勢の観客を意識しながら演じて喋ってる。っていうと、やっぱり芝居なのかなあ。舞台っぽい芝居。でも、舞台を撮影した映像をテレビで見ても全然そんな感じしないしな。んーーーーー、わからん。



余談になるけど、憲法9条について喋りながら歩み寄ってくる首相夫人を正面からとらえたカットが延々と続くシーンを観てるときの生理的圧迫感はすごかった。そもそも音量が大きいので鼓膜が圧迫されるという身体的ストレスがあり、それに加えて、こちらに向かって徐々に近づいてきてるはずなのにカメラと夫人との距離が全然変わらないことによるストレス・・・詳しく言うと「真っ正面からこちらに向かって近づいてくる」という行為自体に心理的圧迫感を与える要素があるのに、終わりが見えない、距離的にもうそろそろ立ち止まってもおかしくないはずなのに一向にその気配がないという状況がえも言われぬストレスを与え、ものすごく精神的に圧迫されました。