記憶の中であれば、映像の中に存在してない幽霊を見せることだって可能なはず

人間の脳には、周りの情報とこれまでの経験から推察し、実際にはそこに存在してないものをあたかも存在していたかのように記憶ごとすり替えて見せてしまう機能が備わっています。この機能を使って、映像の中に存在しない幽霊を記憶の中だけでつくり出すことができないものかと、ある人には見えてある人には見えない幽霊を作りだすことができないものかと日々考えるわけです。


何故そんなことを考えるように至ったのか。実は以前に一度、とある作品でそこには全く存在してない映像を記憶の中で勝手に作り上げていたことがありました。タイトルは『岸辺のふたり』。幼い頃に自分を置いていなくなってしまった父親を待つ一人の女性の一生を描いたわずか8分の短編アニメーションです。内容についてネタバレしつつ話を進めることになるので、未見の方はこの機会に是非見ていただきたい。非常に感動的な作品です。


岸辺のふたり Father and Daughter』


この作品は、2004年に劇場公開され、昨年の3月にもジブリ配給で「春のめざめ」という長編アニメーションの併映という形でリバイバル上映されました。最初の劇場公開時に観に行けなかった私は、その後ネットで何度か見て、昨年初めて劇場のスクリーンでこの作品を観ることができました。その時同行した友人は最初の公開時に観ており、今回が久しぶりの観賞だったようです。


問題の映像が出てくるのは、物語の終盤(動画の6分15秒過ぎ)、父親が乗ってたとおぼしきボートを娘が発見するところです。長い年月が経ちすっかり年老いてしまった娘は、地面に半分ほど埋まった状態で発見されたそのボートに駆け寄り、白骨化した父の遺体の横でしばし眠りにつきます。・・・ん? 何かおかしなこと言いました? ああ、確かに言いましたよね。いま観ていただいた方には分かって頂けると思いますが、「白骨化した父の遺体」なんてものはボートの中にはなかったわけです。しかし長年そう記憶していた私は、劇場でこれに気づいた時、本当にびっくりして、しばし狐につままれたような状態になってしまったんですが、途中で「ああ、昔と変わらぬ姿のお父さんが現れたから、あたかも遺体が見つかったという直接描写がなされていたかのように記憶違いをしていたんだな」と気を取り直し、それ以降は集中して作品に没入することができました。


ところがです。映画が終わって一緒に観てた友人が思いも寄らぬことを言ってきました。


「なんかずーっと勘違いしてたんだけどさ、最後にお父さんの乗ってたボートが出てくるじゃん? あのボートの中にお父さんの骸骨があったように思ってたんだけど、今日見たら無かった(苦笑)」


・・・これはどういうことなんでしょうかね? 私だけならともかく友人もあるはずのない白骨死体を記憶していた。友人と私では最初に見た時期も媒体も異なりますし、もちろん「映像が差し替えられた」なんて話はありません。


おそらく、あの状況下でボートが見つかれば「その中には父親の遺体がある」というのが長年に渡って使いしつくされた非常にメジャーな展開であり、記憶の倉庫から取り出すときに映像として表現されなかった部分を勝手に脳が補完してしまったということなんでしょう。


だからね、これを応用してなんとか観客の頭の中にだけ存在する幽霊を作りだせないかと考えるわけですが、さっぱり思いつかないので、この話はここまで。



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