“怖い”という感覚は何故起こるのか

一昨日放送されたTBS『R30 映画監督・森達也』で森さんがこんなことを言ってました。

森達也「死刑っていうのはみんなが知ってることで、でも実質本質本体は考えたら誰もわかってないんじゃないかなって思って。きっかけはオウム絡みですけどね。いま、幹部信者の面会・・・みんな死刑囚ですね・・・会いに行って、何度も面会して手紙のやりとりもしたりしてね、アクリル板越しに話しをしながらフッと『彼らは死刑囚なんだな。いずれ執行されるんだな。それって何なんだろうな』って、段々それが、考えたら自分も死刑ってよく判ってなかったなっていうのがあって、じゃあ死刑について考えたい知りたい、それを知る過程でもしかしたら何か書けないかなって思ったのがきっかけですね」


国分太一「・・・こわい・・・。怖くないですか?」


森達也「あのね、《怖い》って感覚は“知らない”から怖くなるんですよ。お化け屋敷がそうでしょ? 何が怖いの? だってどう考えたってあんなものはぬいぐるみ・着ぐるみか、大学生がアルバイトでメイクしてるかで、そんなのわかりきってる。マネキン人形とか。でも、怖いんです。『何が怖いんだろう?』と思って、『あ、そうか』と思ったのは、“オバケ”が怖いんじゃないんですね。“通路”が怖いんですよ。いつどこから何が出てくるか分からないから怖いんですね。逆に言えば怖いっていうのは人間は“分からない”から怖いんです。」


最近↓これを読みました。

黒沢清監督と著名人による対談本。半分以上恐怖や幽霊がテーマとなっているため非常に刺激されることが多く、特に伊藤潤二ファンにとっては「清、よくやった!」と褒めたくなるぐらいの必読本なわけですが、この本の中で黒沢さんがしきりに「なんで幽霊は怖いのだろう? そんなに怖いなら死んでお仲間になるのが一番てっとりばやく恐怖から逃れられる方法なのに」「なんで死ぬのは怖いのだろう? 幽霊がいるってことは死んだら幽霊になるだけなのに」といった疑問を呈しているんですね(P43,P61,P116,P130参照)。言われてみれば確かに何でなんだろと。「死後の世界はある」「肉体は死んでも魂は生き続ける」と考えることで死の恐怖を和らげようとしてる割には、死後の世界があることを自ら体現してる幽霊のことは怖いという矛盾。『死ぬのが怖い』という感覚については私も前々から疑問があり、対談の中でも「死そのものより、死の臭いとか死の雰囲気が怖いんじゃないか(鶴田法男・談)」「むしろ死と隣接してる何か、ですね。死そのものより(高橋洋・談)」と語られてるのでこれについてはまあ横に置いておくとして、『何故幽霊がコワイのか』ってことについてはいままで考えたこともなかったので、「なるほどな」と思い改めてマジメに考え始めたら頭の中がグルグルしていま大変なことになっとるわけです。


そもそも《怖い》という感覚はなぜ起こるのか

最も有力なのは「自己の生存を脅かすと予測されるものや状況に対峙したときに脳が発するキケン信号」って説。これには異論なし(「生存」ってところが微妙にひっかかるけど…)。ただし、自己の生存を脅かすかどうかの「判断」は各個人の脳みそに任されるため、物理的にそれが《死》につながるかどうかという客観的根拠にはあまり基づいていないのがミソ。ゆえに何を怖いと思うかの子細は人によってまちまちとなり、例えば、暗闇を怖いと感じる人は多いだろうけど、暗闇が日常である全盲の人に暗闇を怖いと感じる人は一体どれぐらいいるのだろうかってなことが起こったりする。
(余談:恐怖を感じると五感が研ぎ澄まされるのは状況を素早く察知するためなんだろうけど、そのせいで些細なことにも敏感に反応し怯えやすくなるのはいかがなものか。身体が硬直するのだって、突発的な攻撃や事故による肉体的ダメージを軽減させるためなんだろうが、そのせいで逃げ遅れたら五感を研ぎ澄ます意味がないと思うんだが・・・いや、「逃げるにしたってまずその場で状況判断するのが先だろ? そのとき防御態勢に入らずして誰が己の身を守ってくれるんだ」って理屈なのか。)


《怖い》と感じる/感じないの境界線はどこなのか

いままで怖くなかったのに突然怖くなったものは何だろうって考えると思い出すのが「ゴキブリ」。虫とかハ虫類とか全然ヘッチャラな幼少時代を過ごしてたこともあり、最初はばしばしスリッパで叩っ殺しまくっていたのが、「ゴキブリが飛んでこちらに向かってくる」という体験をして以来怖くて近づけなくなった。あと「虫」。子供の時はゲジゲジだろうがカマキリだろうがヘッチャラだったのに、高校ぐらいから見るのはいいけど触るのはダメになった。その他に、状況によって怖かったり怖くなかったりするのが「風呂」。普段は怖さなど微塵も感じないが、心霊ホラーを見た後に入る風呂は怖い。


何故怖いと感じるようになったのか、その理由を考えてみると、冒頭で引用した森さんの発言『いつどこから何が出てくるか分からないから怖い』というのが思い当たる。自分の場合、「怖い/怖くない」の境は「脅威にうまく対処する自信があるか無いか」ということが常に関係している。


「ゴキブリ」が怖くなったのはヤツが「飛ぶ」ことを知ってからだ。逃げるしか脳が無いと思ってたゴキブリが攻撃をしてくる。しかも顔めがけて飛ばれたときに、持ってたスリッパでうまくはたき落とす自信が自分にはなかった。なんどシミュレーションしても失敗するイメージをぬぐい去ることはできなかった。それ以来ゴキブリが恐怖の対象となった。


「虫」については、中学生を境に昆虫に触れる機会が激減し、虫の扱い方が分からなくなったことが原因だと思う。どういう方向から攻めれば安全に胴体を掴み相手の動きをコントロールすることができるのかといったことがまるでわからなくなってしまったことで、相手がこちらの予想もしなかったような動きをしたときにうまく対処できるんだろうかといった不安が増長されてしまった。あと、アレルギー持ちになったのも要因のひとつかもしれない。引っ掻かれた場所から細菌が入ったり、体液に触れて皮膚がかぶれたらどうしようという恐れがあるから触れない。そういえば子供の時イボガエルだけは怖くて触れなかった。触るとイボができると散々脅されていたからだ。


幽霊番組を見た後の「風呂」が怖いっていうのは、風呂に入ってるときこちらが素っ裸で非常に無防備な状態だからというのが大きい。そもそも風呂場というのは狭いし濡れて足場も悪い。幽霊に限らずもっとも暴漢に襲われたくないシチュエーションである。特に髪を洗ってるときが一番怖いのは、頭下げてるせいもあって視界が悪く、いまここで出られたら体勢的にかなり不利な状態だという意識があるからだろう。出口を背にしてない限りうまく逃げられる自信はない。おそらく角に追いやられてやられておしまい。猟奇映画やスプラッタ映画を見ても疑似体験以上の怖さを得られないのは、映画に出てるような殺人鬼が家に押しかけてくる危険性を感じないからだ。たとえ押しかけてきても扉に鍵がかかっていれば、その間に窓から逃げるとか警察を呼ぶとかバリケードつくるとかいろいろ対処のしようがある。微妙なのが「ストーカーもの」でベッドの下や押し入れの中にストーカーが潜んでた系の都市伝説を見たり聞かされた直後は、ベッドの下の暗がりや押し入れの隙間が怖くなる。


なぜ幽霊は怖いのか

以上のことを踏まえて考えると、私が幽霊を怖がるイチバンの理由は「襲われたときに勝てる自信がない」からだと思う。まともにコミュニケーションがとれる相手なら話し合いでなんとかすることもできるだろうが、言いたいことがあってもまともに伝えてこない、こちらの話しなんて聞かなそう、何をし出すかわからない、何を考えてるのか分からない、だから行動が読めない、弱点がどこかわからない、実体がないからフライパンで殴ってひるんだ隙に逃げるとかもできない。そのうえ、鍵をかけても勝手に人の家に入ってくる、人が入れないような隙間にも侵入できそう、神出鬼没・・・。そんなやつを相手にどうやったら勝てるのかがわからない。こちらが出来る対処といえば、近づかないか、興味の対象を他に向けさせるか、ただひたすら逃げることぐらい。山で熊にあったときの対処と大して変わらない。そう考えると幽霊だからといってその怖さは別段特別のものではなく、キ●ガイが怖いとか、泥酔してホームで傘振り回してるオッサンが怖いとかの延長でしかない。何考えてるのかわからない上に神出鬼没で言葉が通じず襲われたら勝てなそうな雰囲気があるから怖いんであって、コミュニケーションがある程度とれて襲ってこない、つきまとわないことが分かれば怖くもなんともないんじゃなかろうか。


結局、何を怖がっているのだろう

とどのつまり、恐怖の本質っていうのは、対象そのものではなく、その対象によって「自分が対処できないような事態がもたらされる」ことを怖れてるってことなんじゃないのかな。「対人恐怖症」なんてのはその典型例だよね。その意味でいうと『知らないから怖い』ってのは半分正しい。でも半分正しくない。心霊スポットなんかは、そこに幽霊が出ると「知った」ことにより恐怖が増してるからね。


以下、思いついたことを列記。

  • 人間は常に先のことを予測しながら行動してる。
  • 予測できないことは怖くない。
  • 対処方法がわからないものは怖い。
  • 対処方法がわかれば怖くない。
  • 対処方法がわかっても対処できるだけのスキルがなければやはり怖い。
  • 対処方法がわからないなら予測できない方がましかも(怖くないから)。
  • 恐怖から逃れるための対処方法として「予測しない(先のことを考えない)」ってのもあながち間違いではない。
  • いまではなく、これから自分の身に降りかかることについて怖がってる(脅威のまっただ中にある時でさえ)。
  • 理解不能なものは怖くない(先の予測が出来ないから)。
  • 理解不能なのに怖いのは、理解不能なりに何かを感じ取って予測してるから。


そういえば、上の対談本で鶴田さんがこんなことを話してた。

最近悩むのは、理屈は通らなくてもいいけれど、不可解では駄目だ、ということなんです。

なかなか難しい問題ですよね。いまはちょっとでも分からないことがあるとすぐ「意味不明」の一言で切り棄てられちゃうから。


つーか、そろそろ黒沢さんは小中さんと対談してよ。んで、小中さんは塚本晋也監督と対談してほしい。


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↓これはコメント欄も是非。「怖がらせる演出」について延々語り合ってます。

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