『大日本人』を観た(@シネコン)

まだ頭の中でまとまってないのでメモ書き程度に。こまめに加筆修正して体裁を整えてゆくので、タイトルタグが[感想]に変わったら「ようやく書き終わったんだな」と思って頂けるとお手間をとらせないかと思います。


若干、ネタバレ含むので折りたたみます。



「映画」と「テレビ」の違いって何だろう…。そのようなことを考えた。「映画館」で観るのに適した作品と「お茶の間」で観るのに適した作品。両者の違いは何なのか、何からくるのか。


改めて言うまでもないが、「映画館」とは、映画を観ること以外の行動が極端に制限された場所である。これは「お茶の間」がどんなに設備を充実させて映画館に近づこうとしても、強固な意志なくしては絶対に再現できない「映画館」ならではの特性だろう。それ故に、映画館ではお茶の間で観るよりも神経を集中させて作品を観ることができる(観させることができる)、という利点がある。


人が一度に認知できる情報量というものには限界がある。情報は目(映像)と耳(音声)、両方からもたらされるが、常に同一の内容が同一の強度でもたらされるわけではない。各々が別の情報を流し合うことで互いの足りない部分を補い合うこともあれば、全く正反対の情報(例えば「笑いながら怒る人」のように)を流し合った結果、より強度の強い(=説得力のある)情報によってもう一方の情報が打ち消されたりいびつにねじ曲げて受け取られることもある(一般的には音声より映像の方が情報としての強度が高い)。故に、音声と映像で同時に何かを伝えようとする場合、どちらの情報をどの程度の強度で流すかというバランスが重要になってくるのだが、それらをコントロールするのが「演出」や「編集」といった作業ということになるのだろう。


加えて情報とは、多いと鬱陶しいが少なければ退屈するものである。多すぎる情報は、受け手の側で必要なものとそうでないものを取捨選択し、たいていの場合ほど良い量まで削ぎ落とされるものだが、取捨選択の基準がわからないと、過剰な情報を受け止めきれずに飽和して全ての情報が無に化し均質化してしまうこともある。逆に少なすぎる情報は、受け手に退屈な時間をもたらし、もてあました時間を潰すのが困難な状況下(例えば、映画館のような…)においては、寝るか、考え事でもするか、空想に浸るぐらいしか退屈を解消する術はない。




閑話休題


松本人志第一回監督作品『大日本人』は、事前情報がかなり制限された状態で公開された。公開直前に積極的に蒔かれた情報と言えば、メインキャストの名と松本人志主演による「特撮ヒーローもの」ということぐらいか。ストーリーは不明。「いくらテレビの世界で頂点を極めた松っちゃんといえども映画は畑が違う」とそこそこの出来を期待してたところに、カンヌの招待作品に選ばれたなんて報道が飛び込んできたり、出演者自身、自分がナニをやってるのか完成品を見るまでわからなかったなんて話や「とにかく今まで誰も見たことが無いような仕上がりになってる」との情報まで飛び交い、不安と期待の両面から過剰に煽られつつ劇場へと足を運ぶことになった。


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映画『大日本人』は、簡単に言ってしまえば「巨大怪獣と戦う変身ヒーローもの」である。しかも世間からはかなり疎まれた存在で、自宅の塀は誹謗中傷の落書きで埋め尽くされていた。誰からも理解されない孤独なヒーローである。


映画は「先祖代々ヒーローを生業としている男・大佐藤の日常に迫る密着ドキュメント」という形で進んでゆく。ヒーローものにありがちな戦いに至るまでのドラマなんてものは存在しない。初戦までの前フリがとても長く、非常に退屈する。いや、長いことそれ自体が退屈をもたらすのではなく、話す内容が日常生活についてのごくありふれた話で、かつ取材対象である大佐藤の、喋る姿、話してる内容があまり面白くないのが原因。


大佐藤を演じるのは松本監督自身。声・顔共に表情に乏しく、まじまじと見つめたくなるほど面白い顔をしているわけでもない(というか20年近く見慣れてるので今更である)。人間的に一目見て引きつけられる程の魅力があるわけでもないありふれた男が、日常生活についての質問にただ淡々と答えてゆく。ただそれだけのインタビューが冒頭から延々と続く。ヒーローを生業としていることを除けばごく普通の人間・・・そのことを強調するためにあえて彼のありふれた日常を長々と見せているんだろうが、監督は映画を観に来てるほとんどの観客が「彼がヒーローとして何と戦いどんなことをしているのか全く知らない」ということを忘れてる。「巷では有名人の彼もあなたたち一般人となんら変わらない生活をしており、ヒーローとは言っても弱いひとりの人間なんです」とばかりに彼の普通さを強調されても、「“ヒーロー”っつったって何やってるかようわからんそこらのおっさんが、面白くもいない日常生活について語ってる」ようにしか見えず、話す内容が普通であればあるほど、観てるこちらはどんどんどんどん退屈してくる。


バスから自宅へと場所を移動しつつ進められてゆく大佐藤へのインタビュー。歩行時以外ほぼ固定位置から映し出される映像は、30秒目を閉じても問題無いくらい変化に乏しい。たまに画面を横切る第三者(バスでは「乗客」、家では「ネコ」)が唯一の変化か。余った集中力は遊ばせておいても仕方ないので「しゃべり」(聴覚情報)へと動員されることになるのだが、前情報のほとんど無い作品にもかかわらず、具体的な仕事の内容にはなかなか触れてくれない。こちらの興味はそこにあるのに。生活に関する細々とした情報を小出し小出しにされるだけでは、与えられた情報を使ってこれからの展開や大佐藤の生い立ち等をあれこれ想像することもできやしない。変わり映えのしない映像を見つめながら、一般人とあまり変わらぬ日常話をただ聞くだけという退屈な時間が延々と流れてゆく。せめて突発的なことが起こりそうな緊張感でもあれば集中して観ていられるのだが、それもない。


これがもしテレビだったら。もしテレビでここがお茶の間だったら、雑誌を読んだり傍にあるパソコンでネットでもしながら、会話だけに集中し、たまに何か面白い展開があったときにテレビ画面を注視すればよい。退屈に思える時間も暇をもてあますことなく面白く見続けることができただろう。でもここは映画館。暗くて本も読めなければケータイ取り出してネットなんて非常識なこともできない。仮にも映画館という「集中を強いる場」で、情報量の少ない映像が延々と映し出されるのはつらい。


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ドキュメンタリー形式であるが故の違和感

CGが入ってるからではない。戦闘部分がコントになってるからでもない。そこは割り切ってる。ドキュメンタリーならあってしかるべき演出がいろいろと欠如してるから違和感を覚えるのだ。


特に大佐藤にインタビューする番組ディレクターの言動(二度目の変身で儀式のやり直しを要求、大佐藤が居酒屋から出たことを電話で知らせる等)。彼の役割、スタンスが不明瞭で一貫性を欠いているように見える。


ディレクターの顔が見えない、意図が読めない(発言がその場限り?。前後がつながらない(つながらせるつもりがない?)。こういったらどんな反応するかと思ってちょっと言ってみた、的な。バラエティのノリ。ディレクターは何故この密着ドキュメントを撮ることになったのか。撮ろうと思ったのか。
ディレクター発言を全てカットし質問箇所はテロップで対応しとけば、ディレクター個人の色、人となり、存在感を消せる(ただしナレーションが代弁していたらダメ)。ディレクター自らが質問者として(声だけとはいえ)ドキュメンタリー番組に登場してる以上、彼がドキュメンタリーの演出家として自分自身に課してる役割はなんなのか。記録を残す観察者・撮影者として存在してるのなら前に出すぎ。そもそも大佐藤についてどう思ってるの?


挑発するような言動が増えて、どんどん存在感を増してゆくディレクター。最後の居酒屋のやりとりはいい。大佐藤の素の表情が垣間見える面白い画が撮れた(個人的に好きなシーン)。しかしここまでの行動と「大佐藤が居酒屋から出たことをマネージャーに電話で知らせる」という行動とがつながらない。いったいこのディレクターはこの密着ドキュメントを何のために撮っているのか。ディレクターの言動の意図がよく見えない。故に、ディレクターの意志で行動してるというよりは、その場の思いつきで映画監督がテレビディレクター役の人にあれこれ言わせてるだけに見える。単なる「駒」。ドキュメンタリーのディレクターとしては自主性が無さ過ぎる。


二度目の儀式で「気合いを入れるところからお願いします」というのも、神聖な儀式に対しテレビ側の都合でやり直しを要求するテレビマンの無神経さ、横柄さを浮き彫りにしたいのか、ありえない言動をして素人がどういう反応をとるか見てみたかったという『働くおっさん劇場』的なノリを映画に持ち込んで見せているだけなのか、どっちのつもりであんなこと言わせたのか判断がつかない。一見すると前者っぽいが、ディレクターの目に余る横柄な態度というのはこれ一回限り。この後どんどん行動がエスカレートするようなことは特に無かった。となるとやはり後者なんではないだろうか。一応、お笑い映画だし。テレビ的な笑いを映画に持ち込んだけどシリアスな雰囲気が邪魔してうまくいかなかっただけなのではないか。


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これを「フェイク・ドキュメンタリー」と言われると違和感がある。「部分的にドキュメンタリーっぽい手法を取り入れてみました」というくくりにした方がしっくりくる。いや、「ドキュメンタリー」と言うよりはむしろ「ドッキリ番組」に似てる。特殊部隊まで呼んだ大仕掛けの「ドッキリ番組」。


そういえば、「フェイク・ドキュメンタリー」と「ドッキリ番組」、両者におけるディレクター&カメラマンの意識・役割にどんな違いがあるのだろう。「やらせ」と「フェイク〜」は非常に近いと思うんだが。


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でも「ドキュメンタリー」というのは手法として間違ってない。大佐藤のいる世界がもしあったらと夢想すると非常に楽しい。過去のニュース映像も秀逸。ただ、「笑い」と共生させるためには何かが足りない。笑えるドキュメンタリーは存在する。いくらでも。でも『大日本人』のドキュメンタリー部分は笑えない。その理由は?

何故「笑えない」のか

松本人志第1回監督作品である『大日本人』は、「芸人・松本人志が芸人らしく“笑い”で映画に挑戦する」という触れ込みだったはず。確かに「ごっつ」のコントと「ガキ使」のドッキリ・罰ゲーム企画、「頭頭」の奇々怪々な世界に「働くおっさん劇場」の素人いじりを足したような作品ではあった。しかし、どうもシリアス過ぎて、普段だったらシュールな笑いとしてクスリ、ニヤリと笑えたはずのやりとりが本作ではまるで笑えない。テレビと変わらぬことをやってるはずなのに、お笑いの持つ非人道的な側面や理不尽さが強調され気持ちが引いてしまう。ただそれ自体別段悪いことではなく、大佐藤の置かれた境遇とも重なり、シリアスな映画として締めくくれば特に問題はなかったが、本作はそれまでの流れを断ち切るかのようなベタに政治的なシュールネタを突如クライマックスで展開し始めそのままエンディングを迎えるため、シリアスな映画としても笑える映画としてもどっちつかずになってしまった。


ドキュメンタリーという手法がシリアスにみせる要因なのか? いや、それは違う。笑えるドキュメンタリーなんていくらでもある。では何故『大日本人』は笑えないのか。やはり大佐藤のキャラクターが問題なのか。思い起こせば、笑えるドキュメンタリーの主人公たちは同情を寄せ付けないほどの強さを秘めてることが多い。どんなに社会的には「弱者」に見えてもだ。もし大佐藤ではなく四代目が主人公だったら。。。

「ガキ使」or「働くおっさん劇場」っぽいシーン

ディレクターが「もう1回気合いをいれるところからお願いします」と場違いなやり直しを要求し、神主がおろおろしながら言われるがままにやり直すシーン。
酔っぱらって自宅に帰ってきた大佐藤を、待ちかまえていた特殊部隊が無理矢理変身させてしまうシーン。
エキストラのおじいちゃんたち。
ディレクターのインタビュー。

「ごっつ」or「頭頭」っぽいシーン

大佐藤と獣との戦い。
獣の造形。
巨大化して暴れる四代目。


「ごっつ」ぽいシーンは笑えるし実際笑いも起こってた。一番ウケてたのは暴れる四代目と板尾のシーン。下ネタ具合も映画にはあってる。



松っちゃんは次撮るならおじいちゃん映画がいいと思うよ。おじいちゃんたちに比べると大佐藤はいまひとつ魅力的じゃない。内面がなかなか見えてこなくてドキュメンタリーの被写体としてはいまひとつ面白くない。居酒屋でようやく内面をさらけ出してきたかと思ったらもう終わりだし。



大日本人』が笑えるドキュメンタリーになるためにはあと何が必要なのか。