第15回映画祭TAMA CINEMA FORUMの特集上映「在日のありようはどう変遷したか」において、映画『月はどっちに出ている』『血と骨』の原作者である梁石日氏と、シネカノンで配給・製作をてがけ『パッチギ!』『月はどっちに出ている』等のプロデューサーで知られる李鳳宇氏をゲストに迎えてのトークショーが行なわれました。司会はトークショーの後に上映される『IDENTIY 特別編』を撮った在日のドキュメンタリー作家・松江哲明氏。
原作者とプロデューサーが揃ってると言うことで、映画製作の裏話がメインに、、、と言いたいどこだけど、単に覚えてるのが裏話メインというのが真相です(苦笑)。在日文学についてもいろいろと喋ってましたが、名前を覚えられなかったので全面的に割愛。
まずは二人が関わった映画『月はどっちに出ている [VHS]』について。様々な意味でエポックメイキングとなった本作だが、最初に映画化すると言い出したのは崔洋一監督だった。『十階のモスキート』で毎日映画新人賞を獲り一躍脚光を浴びた監督は、「次は梁石日氏の「タクシー狂躁曲」を映画化する」と言い、取材の人が梁さんにもインタビューにくるなど、その場の雰囲気では1年ぐらいで出来上がるんじゃないかと梁さん自身も軽く考えていたらしい。実は梁さん、その頃とても貧乏で、「これでまた印税が入る!」と秘かに期待してたそうだが(「これ本音ですよ」と強調するお茶目な梁さん。笑)、実際はそこからが長かった…。企画を持っていっても「在日男性とフィリピン女性が主役の映画なんて誰も観に来ない」とどこの会社も相手にしてくれず、製作の目途がまるで立たない状態が長い間続いた。そのことを崔監督から聞かされ「じゃあ私が引き受けましょう」と名乗り出てくれたのが当時若干32歳の李さん。映画化の話が出てから実に12年目の出来事で、「『月は〜』は李鳳宇という男の成長を12年間待っていたようなものだよ」としみじみ語りつつ、「いいこと言ったでしょ?」と自らアピールする梁石日氏(笑)。映画公開をきっかけに講演に呼ばれることが多くなったという梁さんだが、講演が終わると必ず在日の人が2,3人やってきて「今まで日本名を名乗ってたけど、これからは韓国名を名乗っていきたい」と声をかけられたそうだ。梁さん自身は、そういった現象について「この映画は原作・監督・プロデューサー・脚本すべて在日で作られている。そのことが、在日の人たちに対し「自分たちだってやればできるんじゃないか」という何か大きな可能性を与えたんじゃないか」と述べていた。
続いて、『パッチギ!』について。「68年を舞台にした映画を作ろうと思ったのは何故か?」と問われ、「ちょうどその時代をテーマにした写真集*1を目にしたのがきっかけだ」と話すプロデューサーの李鳳宇氏。『月はどっちに出ている』を作った後、『GO』なども出て在日を取り巻く日本の状況も少しずつ変わってきたが、『月は〜』と同じ事をしてもしょうがないしと思っていたところ、たまたま井筒さんの方でもいろいろと思うところがあって、うまい具合に二人のベクトルが向いてきたと。そこで、奈良の進学校に通ってた井筒さんが康介(塩谷瞬)を始めとする日本人側のエピソードを、アンソン(高岡蒼佑)ら朝鮮高校側のエピソードを李さんが持ち寄る形で脚本が出来上がったそうだ。故に「自分にとっても井筒さんにとっても、今まで作ってきた中で一番プライベートな作品になったんじゃないかな」と語る李さん。「バスを横倒しにするのも実際にあったことなのか?」と問うと、「バスは倒しましたねぇ、、、“誰かが”」と一言。「僕じゃないですよ」とすかさず否定してたけど…(笑)。町中の公衆電話を盗むエピソードについては「あれも“誰かが”やってましたね。僕は傍で見てただけですけど、いまとなっては見ることができてよかったなあと」と笑みを浮かべながら話す李さん(笑)。出来上がった作品は在日の人にもとても好評だったそうで、当初は朝高生をかなり乱暴者に描いてるんで何か言われるんじゃないかと心配したが、作品をもって日本中を回ると、行く先々で飯や酒をおごってくれて、その席で「俺のほうがもっとすごかったぞ」と言われることも多かったという。
梁石日氏にも『パッチギ!』の感想を聞くと、「とても感動した」との答えが。「井筒さんはもしかして在日なんじゃないの?と思ってしまうぐらい、在日の気持ちがよく描けていた」と感心していた。68年頃何してたのか問うと、事業に失敗して大借金を抱え大阪を離れ、仙台に居たか、仙台から東京に移ってタクシー運転手をやってた頃じゃないかと話す梁さん。映画の中で高校生達が乱闘を繰り広げていたけど、東京でも国士館と朝高(朝鮮高校)の生徒が池袋の駅で大乱闘したりしてたので、いろいろ映画とオーバーラップするところもあったそうだ。ちなみに梁さんの子供時代について尋ねると、子供の頃暮らしてた地域は、4、5人に一人が在日という環境だったため、いわゆる人種差別みたいなものは感じなかったと。ただ、制度的な差別は受けており、生活に必要な最低限の権利を勝ち取るために上の世代は頑張ってきたわけで、そうやってひとつずつ戦って獲得してきた様々な果実を食べて生きていることだけは、若い在日世代も忘れないで欲しいというようなことを語ってました。
梁さんが父親をモデルにして書いた『血と骨』は、ビートたけしが主演を引き受けなかったら崔洋一監督もまず映画化してなかっただろう作品だとか。この作品に関しては、主演を引き受けたたけしさんの方でもちょっとした縁を感じていたらしい。実はオファーを受ける直前、仕事で大阪に行ったたけしさんは、たまたま時間が空いて友人と飲むことになり、その席で友人から「『血と骨』って小説読んだか?」と問われ「いや」と答えると「この主人公は絶対おまえがやるべきだ」と強く薦められており、小説を読もうかと思ってた矢先に監督から「たけしさんに是非やってほしい」と『血と骨』の台本を渡されたんだそうだ。実は本作も、主演が決まってからが大変だったらしい。製作を開始してから3年で、松竹が自社の業績不振を理由に製作を降りてしまい、その後また製作に復帰するわけだけど、一からの立て直しでそこからまた3年かかってしまい、完成まで6年かかったそうだ。ビートたけし、鈴木京香の二人は、その間ずっと待っていてくれたらしい。
「在日のことがメディアでクローズアップされ映画やドラマが出来るいまの現状についてどう思うか」という問いに、「長年こういう業界でやってきた身としては感慨深いものがある」と答える李鳳宇氏。徳間ジャパンに入社しこの業界に入ってきた李さんは、当時ある在日の演歌歌手のプロモーションビデオを作るので現場に行ったところ、相手の歌手の人に嫌がられるという経験をしたそうだ。李さんとしては、同じ在日ということで親近感を持ってくれるものだとばかり思っていたら、そうじゃなかった。在日であることを伏せて活動してた歌手の人は、本名で活動してる李さんにそのことで何か言われるんじゃないかと思ったらしい。近年、沖縄を舞台にした『ちゅらさん』に人気が出たり、アイヌ民族を描いた『北の零年』のような作品が大手で作られるなど、在日に限らず日本に住む様々な民族に目が向けられるようになってきている。そのことについて「日本人自身が現状の社会に対し制度疲労を感じてるのではないか。そしてそこから抜け出すために内なる国際化を志向し始めてるのではないか」と語る李さん。ただ、ドラマなどを見る限り、まだまだ障害のひとつとして在日を取りあげてるレベルなので、「なんとか梁さんに大河小説でも書いて貰って、それが朝の連続テレビ小説でドラマ化されるところまでいけば日本も変わったなあと思えるんじゃないか」と語っていました(それに対し「NHKはものすごい官僚体質なんで無理でしょう」とあっさり否定する梁さん。その昔「タクシー狂躁曲」がNHKでドラマ化される話があったけれど、上の方の壁に阻まれぽしゃった経験があるらしい)。
「これから20年もすれば65歳以上の高齢者が人口の3分の1を占めることになる」と語る梁さん。海外から労働力を輸入しないと日本経済は立ちいかなくなる。故に、「経済、文化、制度のグローバル化は避けられない問題となるだろう」と。在日コリアンの中でも世代交代が進んで、いまの若い世代は日本人の子らと全く変わらない。20年前、在日コリアンの人数は日本に暮らす外国人の約8割を占めていたが、今では4割にまで減ってきている。在日コリアンの意識も、今とは変わらざるを得なくなるだろうと語っていました。
そろそろお時間ということで、最後に会場からの質問を2,3受け、この日のトークショーは終了。みんなが壇上を去った後、松江監督だけ残り、この後上映される『IDENTITY 特別編』の舞台挨拶をして帰りました。
とにかく何が一番伝わったかっていうと、李さんは梁さんのことが大好きだ!ということかと(笑)。相当好きですね。かなり惚れ込んでるので、近い将来、また何か作品を映画化してくるんじゃないかと思います(ちなみにトーク中、梁さんが何度も井筒監督の名前を「筒井さん」と言い間違え、会場の笑いを誘ったのは内緒の話です)。
*1:『チェンジ・オブ・イヤー』って言ってたが、検索しても引っかからないのでよくわからないです。