『カナリア』を観た(@アミューズCQN)

トークショーもあったので劇場は立ち見満員(80人ぐらい)。

客層は30代中心に男女半々といったところかな。東京での上映は今週の金曜日までです。



映画の詳細は以前の日記を参照。


んで、感想です。


お目当ての谷村美月ちゃんは予想以上に良かったです。「おまえが死ねー!」の宮崎“ラブドガン”あおいちゃんといい、怒れる少女は大好き。しかしこんなあどけなかった少女がたった1本でこうなっちゃうんだから、「映画」っつーのはほんに恐るべしですよ。美月ちゃんにはこれからもどんどん不幸を背負って理不尽な世間に対し怒りを露わにして欲しいなと思う。ナレーションも意外としっかりしており、相方の石田法嗣くんが台詞に関してちょいといまいちなだけに、彼を無口にして彼女に喋り倒させるというのはなかなかな配分だと思った。顔と実体のアンバランスさも大きな魅力。ただそれは「今だから撮れた」ってとこもあって、『カナリア』で演じた強気で活発な役柄がドラマではなかなか見られないことを考えると、『バトロワ』での期待をあっさり裏切ってくれた柴咲コウのように、色が付いちゃいけないとばかりに、強面封印ソフト路線でいく可能性も大きい。それは非常に惜しい。勿体ない。やはりまだまだ観たいもの、したたかで強気に突っ走る美月ちゃんを。だから次は土佐弁あたりでどうでしょうか?(笑) とりあえず『東京ゾンビ』と『笑う大天使』での役柄には注目ですね。


大人の顔つきに子供の身体というヴィジュアルが、演じる《由希》ともシンクロして、強烈な光を放ち続けていた美月ちゃんに比べると、もう一人の主役・石田法嗣くんは内にこもることが多い分、ちと分が悪い…。その代わりと言ってはなんだけど、場面ごとでみせる表情は印象に残るものが多かった。新しい武器を手に入れた時のニヤリとした顔、西島秀俊を睨みつける目、オムライスを食した時にふいにこぼれる笑顔…とかね。ここぞと言うときにこれしかないという表情をピンポイントに出してくるので、そのたびにドキッとさせられる。彼の演じる《光一》という役が素の自分をなかなか表に出さないこともあって、彼のピュアな部分、光一らしさに一時でも触れた気がして、よりいっそう魅力的に映るのかもしれない。それから、走る姿や、顔つき、肩に手を置き無言でりょうを慰める雰囲気などが、非常に“イヌ”っぽいなと思った。言葉には表さないけど、相手のことはずっと見ていて、ときに寄り添い、ここぞというときに走って助けにきてくれる。



作品自体は個人的に微妙です。なんかバランスが悪いように思う。一番の要因は、カルト教団ニルヴァーナ》の描写。教団施設での生活に時間が割かれすぎで、子供達を中心に描くはずだったのに「やっぱり教団についても描かなきゃ」と思い始めたら配分がおかしくなっちゃったという感じ(実際は知らないけど…)。その弊害(?)を一番に受けたのがりょうとつぐみのレズビアンカップル。そもそも何故、レズビアンカップルなんだろう。いろんなタイプの大人がいて、いろんな家族のあり方があって、その中でレズビアンという存在を出してくるなら流れのひとつとして受け取められるんだけど、子供達が旅路の途中で出会う大人は、援交オヤジや元信者、光一の家族といった具合に、由希と光一がそれぞれに暮らしてきた生活と関わりのある人物ばかり*1。彼女たちだけがまったくのよそ者で、出会った場所も人気のない森の中で霧がかかってたりしするもんだから、物語が進むにつれ、リアリティの薄いファンタジックな存在に感じられてきた。ラストが寓話的なのでそことはバランスがとれてたけど、全体からはひどく浮き上がってたように思う。旅は長い。気持ちを一端仕切り直すためにも、子供たちを今いる現実からしばし解放する必要があったのだろう。そのために、二人のこれまでの生活とは何の関係もない(故に彼らが第三者的になれる)人物を登場させるのは必然だったと思う。でも、女同士のいざこざは「いったい本筋と何の関係が?」と余計な詮索をしたくなるだけなので、普通の男女カップルにしといてくれた方がよかったなあと思う。


「教団施設での描写に時間が割かれすぎ」と言ったけど、それを不満に思う理由は二つある。ひとつは、中途半端に見せすぎなとこ。やるなら深部まできちんと描いてくれないと物足りないし、モデルが存在するだけに新たな情報を提示されるとかえって脳内補完の妨げになる。もうひとつは、カルト教団の言動や教義に対し、自分自身が全くリアリティをもてないという個人的問題。教団内部の状況がきちんと再現(表現?)されるほどに、リアリティが薄れてゆく。リアリティの無い存在にリアリティを見出すには、信者の素に触れるのが一番なんだけど、彼らは信者という仮面の奥に素の自分を閉じ込めてしまうため、意識的に描き出してくれないことには、なかなか素に触れた感覚を得ることは難しい。しかも今回はどこかで聞いたことあるような作られた台詞ばかりなので・・・


光一が祖父と対峙する“例のシーン”については、あまりにも予想外でしばし「ぽかーん」というか、しばらくの間、思考が止まってしまった。演出としては「あり」だけど、ああいう解決の仕方は否定したい。由希と出会ったばかりの光一は、妹のことを除くと、自分の言葉をほとんどもっていない状態で、何を問いかけても教団で身に着けた借り物の言葉で返してくる始末。そんな光一の態度に怒った由希は、彼の言葉に異議を唱え、ストレートに疑問をぶつけ続けた。でも彼に答えられるわけがない。自分で考えて導き出した答えじゃない上に、代わりに答えてくれる大人もいないのだから。となると、あとは自力で答えを見つけ出すしかないわけで、何が正しくて何が間違っているのか、光一はただひたすらに自問自答を繰り返したんだろうと思う。そうやって「教義は絶対だ。疑問を挟む余地など無い。そのまま受け入れろ」という思考停止の世界からようやく抜け出せたと思ったのに、母が入信を決意した元凶であろう祖父と対峙する大事な場面で、自分の言葉で語らせないんじゃ、今まで見せてきた過程は何だったんだろうと思ってしまう。光一には、誰かを代表したような言葉じゃなく、自分の感情を祖父にガツンとぶちまけてほしかった。個人的にファンタジーは大好きだし、抗いがたい現実に対抗できるのはファンタジーの力しかないと思ってるけど、自力で克服できる現実を寓話的に解決しようとするのは逃げだと思うし、大人は誰も子供達の問いに答えようとしないのに、赦してもらうなんて甘えだと思う(いや、たぶんそういうことじゃないんだろうけど、自分にはそういう風にしか受け取れなかった)。子供にだけ背負わせるのはよくないと思うし、そこまで子供に強さを求めていいんだろうかとも思う。答えが出るまで自問自答しつづけなきゃならないのは、大人の側じゃないんだろうか。


そういった意味では、『銀色の道』といういい曲がありながら、エンディングをあえて『自問自答』にしたのは分かる気がする。光一のラストの台詞には、曲の力強さも含めこっちの方が断然合ってる。テレビでやるときは絶対カットしないで欲しいですね。この曲までいれないと物語は完成しないから。話はそれるけど、その昔『ドラゴンヘッド [DVD]』という映画があったんですよ。ダメなところをあげるとキリの無い映画なんだけど、私自身は結構好きなんです。トンネルから出た直後の主役二人の愚痴り合いなんかはとてもリアルだったし、火山弾ドッカンといったVFXは大いに楽しんだ。で、この映画で一番好きだった台詞が、火山大爆発で「ぜってー死ぬぜ」って状況を目の前にしながら主人公が吐く台詞。これを聞いた時「おー、よくぞ言った! それでこそヘリから落ちても死なない不死身のテルくんだ!」と非常に気分が昂揚させられたのに、何故その直後にMISIAのバラード流してクールダウンさせようとするんだと。この状況に相応しいのはデスメタルだろと。わかってないよ、飯田譲治は・・・と非常に残念でならかった。その点『カナリア』はよく分かっていて、あの台詞に相応しいのはまさしく↓これですよ。




とまあ、いろいろ愚痴ってきたけど、なんかここまで喋ったら、いい映画のような気がしてきた(笑)。正直な話、頭の中がまだまとまりきってないので、次に観た時は全然違う感想になるかもしれない。


そういえばお婆ちゃんが鶴を折るシーン、あそこだけ画がドキュメンタリーだったなあ。。。

*1:だから「“ロードムービー”というより“旅もの”」なのか…