言語のビジュアル化と記憶

先日観た映画『姑獲鳥の夏』の感想を書いてるうちに、1年前に読んだある記事のこと思い出しました。


小説を読む際のビジュアル化 (@ARTIFACT−人工事実−) 

イラストがついていない普通の小説は、ビジュアルなしで読んでます。


最初にこの一文を読んだとき「この人はいったい何を言ってるんだろう」と一瞬頭がフリーズしてしまいました。なぜなら、自分が小説を読む場合、書かれてる文章は読んだ端から実写化され、「ビジュアル無し」とか「必要なところだけ思い浮かべる」なんてことはあり得なかったからです。映像は“勝手に”出てくるものなので、自分の意志でどうこうできる問題ではなく…。てっきり他の人もそうだと思ってたのに現実は違っていたという事実に、当時かなりのカルチャーショックを受けました。


コメントや他の記事を読んでみると、《ビジュアル化する派》でも思い浮かべる映像には個人差があるようで、全てのビジュアルイメージが「実写」になるとも限らない…。ライトノベル好きの人は「アニメ」とか「漫画」って言ってるし、動画ではなく「イラスト」や「一枚絵」だという人もいる。実に多様です。「ラジオドラマのように音声だけ」という人もいました*1


私が読む小説は大半がミステリーなんですけど、google:"小説を読む際のビジュアル化 "でこの件に言及してる記事を探していたときに、「性別を取り違えさせるような叙述トリックの場合、ビジュアル化しながら読んでる人には劇的な効果があるんだろうな」ということを書いてる《ビジュアル化しない派》の人がいました。小説を書いている作家本人は絶対《ビジュアル化する派》だと思うんですけど、実際はどうなんでしょうか。



思い起こせば、私の場合は小説だけじゃなく、人が喋る話も端からビジュアル化されてしまいます。たまにトークショーの内容をここでレポすることもありますが、ゲストが喋った思い出話の大半は、ナレーションと映像によって構成された再現VTRのような形でまとめられ、トークショーの一場面を写した静止画と共に記憶の貯蔵庫にストックされます。だから、話した内容を思い出す作業というのは、最近観た映画の内容を思い出すのとさほど変わらないわけですが、個々の話の繋がりが弱いので、途中の話が抜けてたり、順番がバラバラになったり、ビジュアル化しにくい話については、断片だけ覚えていたり、思い出せずにごっそり抜け落ちるなんてこともあります。


では、どんな話がビジュアル化しにくいのかというと、簡単に言えば「物語になってない話」がそうです。ゲストどうしの言葉の応酬だったり、カタカナ用語や熟語を駆使して抽象的に語られる「感想」や「意見」の類い、そういったものは、言った通りに「ひとまとまりの文章」として覚えるしかないので、大事な単語を一つでも忘れると文章として成り立たなくなりレポせずにバッサリとカットなんてこともよくあります。


逆に体験に基づく話は「いつ だれが どこで なにをした」といった順序で語られるため、映像に変換しやすく、割と事細かに覚えることができます。「撮影中にこんな出来事があった」とか「昨日○○さんと会ってああしたこうした」というような話は、語り手がその時の情景を身振り手振りをまじえつつ情感溢れる言葉でわかりやすく再現してくれるので、「ビジュアル化しよう」と意識せずとも、物語を聞いてるかのように脳内で勝手に映像化されてゆきます。元々小説を読む際も、文字をそのまま映像化するのではなく、書かれてる文章を頭の中で一度「音読」してから映像に変換するので、人の話をビジュアル化するのも書かれた文章をビジュアル化するのも、手順としてはたいして変わらないのです。


「人の喋っている話を端からビジュアル化してゆく」というクセが意外なところで発揮されたのが、先日観た『帰郷』という映画でした。この映画は、片岡礼子演じるバツイチの女性が、小学生になる一人娘を西島秀俊演じる昔の男に預けたまま失踪、男と娘が、彼女の行きそうなところを記憶を頼りに二人で探し歩くという話です。娘は行く先々で母親との想い出を男に語って聞かせるのですが、その間、回想シーンという形で片岡礼子がスクリーンに登場することはありませんでした。でも、私の頭の中では違います。娘が「お母さんとここで〇〇した」「いつもお母さんは〇〇してた」と語るたびに、私の前には片岡礼子が現れ、少女の語る回想がそのまま実写映像となって目の前に映し出されるのです。だから映画を観終わっても、彼女の登場シーンが最初と最後だけという気が全くしませんでした。



なんでこういうクセがついたのかなあ、と考えてみると、ひとつ思い当たることが。。。


うちは親が厳しかったので中学に上がるまでテレビは1日に2時間しか見させてもらえませんでした。しかも、夜9時以降はダメ。でもテレビを見たいさかりですから、見ちゃダメと言われるほどにテレビへの欲求は強くなり、親に隠れてこそこそ見る方法をいろいろと試行錯誤したものです。そんなある日、確か小学5年か6年に上がったばかりの頃だと思うのですが、テレビの音声が1chから12chまで受信できるという画期的なラジカセが発売されました(しかもWデッキ&オートリバース付)。1chと3chだけ入るやつならうちにもあったけれど12chまで入るのはなかった。これならアニメの主題歌だって録音し放題、まさに夢の電化製品です。チェッカーズか誰かが宣伝していたこともあり、クラスの子もこぞって買っていました。私も白いのを買いました。初めてのMyラジカセ。以来、ドラマやバラエティ番組を【ラジカセで聴く】生活が続き、その時に、耳で聞いたことを端から映像化してゆくクセが強化されたんじゃないのかなあと、まあ、そう思うわけですが、実際はどうなんでしょうか。詳しいことについては誰かの研究成果を待ちたいと思います(「誰かって誰?」というツッコミは無しの方向で…)。



再び話を「小説を読む際のビジュアル化」に戻します。


なぜ今回この記事を思い出したのかというと、私にとって昭和の探偵小説というのは最も好きなジャンルであり、中でも『姑獲鳥の夏』を始めとする京極夏彦の「妖怪シリーズ」は、「あれ? 1回ドラマ化しなかったっけ?」と錯誤させるほどにビジュアル化が顕著な小説だったからです。


では逆に、ビジュアル化できない小説はあるのか、、、もちろん存在します。自分の中に映像のストックがないものはビジュアル化できませんし、ビジュアル化が止まった瞬間から、全く読み進められなくなるのです。1ページも読めなくなる。私が途中で挫折し、しおりを挟んだまま10年以上寝かせている小説に小栗虫太郎の『黒死館殺人事件』という探偵小説があります。最初のうちは好きなジャンルということもありぐいぐいと読み進めていたにもかかわらず、途中で延々と絵画やら美術品の説明が続き、その時点で頭が真っ白になり挫折しました(挿絵があれば違ったのに…)。


その他に、映像のストックはあるのに全く絵が思い浮かばず読めない小説というのも存在します。うちの家族がファンで実家には何冊も置いてあり幾度となくトライすれど毎回1ページも読み進められない小説、それが、何を隠そう、皆さん大好き「村上春樹」の小説だったりするわけで、映画『トニー滝谷』はとっても観やすかったのに何故これが小説だとダメなんだろう。不思議なもんです。週末実家に帰るので、またトライしてみるかな。。。



姑獲鳥の夏 (講談社ノベルス) 黒死館殺人事件―小栗虫太郎傑作選1 (現代教養文庫 886 小栗虫太郎傑作選 1) レキシントンの幽霊 (文春文庫) トニー滝谷 プレミアム・エディション [DVD]

*1:私の場合はラジオドラマも全て映像に置き換わるので「音声だけ」という状態がどんなものなのかいまいち想像できないのですけど・・・