“馴れ合い”から生まれるもの

Web現代「ホット・インタビューズ」海洋堂・ボーメ氏が言った一言(04/1/21付)

昔は造形師同士が東西の関係なく交流して、ガレージキット界を盛り上げていければと思いましたが、そういうのって危険なんですね。交流して、仲良くなって、サロン化するというのは廃退だと思うようになったんです。『ワンフェス』でも交流会になったら終わりなんです。常にほかの人の優れた作品を見て「クソー!」と思わないと。どこの世界でもサロン化すると、その世界は閉塞してしまうなと思います。交流なんかしないで、「作品で語れ!」と思うようになりました。


昔、とある自主映画の上映会に行った。それは、「賞の選考からはもれたが面白い作品なので上映の機会を与えよう」という趣旨のもと行われたものだったと思う。


その日は朝から晩まで8本ぐらい上映され、各作品の監督も客に混じって席で見てるような状況だった。出演者や観にきた関係者が監督と挨拶をかわしたり、「どうでした?」「良かったですよ」なんて作品の感想を言い合ってる光景を頻繁に目にした。自主映画業界に知り合いがいるわけでもなく、一観客として金払って観に来てその場に居合わせてた私は、部外者の好奇心でその光景をずっと眺めていたのだが、その中でもっとも頻繁に声をかけられてた監督の作品が、実はその日一番つまらなかったのだ。


その作品はよそで賞をとったこともあるらしいのだが、ただ撮ってるだけのようなこだわりの無い画、いきあたりばったりな脚本、だらだらした演出、しかも長い。内輪向けの馴れ合いじゃれあいを延々見せられてるような不快さすら感じる。後で知ったのだが、主役の女優さんは自主映画では割と名の知れた子らしく、高校の文化祭用映画ってノリ(知り合いが映って面白いことやってればとりあえずみんな満足、みたいな)が作品から感じられたのも、それが一因なのかもしれない。自分はその女優さんのことを知らなかったから内輪ノリについていけなかったのだろう。


その日は、どの作品も全体的にレベルが高かった。それだけに、実際「なんでここにあんたがいるの?」と首をかしげた。選考委員も酷なことするなと。そりゃあ、顔が広いほうが映画を制作する上で何かと有利だろうけど、作品にまで馴れ合いを持ち込んじゃだめだと思う。一人でしこしこ作った監督や「映画のことはよくわかんないけど、なんか面白いもん作ってみたかったんです!」て言ってる人の作品の方が面白いんだもん、それってどうよ? これだけレベルの違いを目の当たりにすれば、おそらく監督自身が一番自作のダメさかげんをわかってしまったと思うんだけど、でも、監督に「どうだった?」て聞かれた人は一様に「良かったです」って答えていて、「うーん」て思った。良くないものに「良かったです」なんて言っちゃいけない。言葉ぐらいにごしてやれ。そういう形での“思いやり”ってのもあるんだからさ。



ボーメ氏の言葉を聞いて、そのときのことをちょっと思い出した。


馴れ合いはやっぱいかんですよ。