記憶と執着

日ハムの新庄選手が引退を表明した。という出だしで始めてみたが、これから書くことにはあまり関係ない。いままで当たり前のようにできてたことができなくなる、当たり前のようにあったものが身の回りからなくなってゆく、そしてそれがもう自分の力ではどうしようもないレベルまできてしまったとき、人はどうやってその現実を受け入れ、今まで生きてきた当たり前の世界と決別を果たすのだろう。受け入れるために何を捨て、何を諦め、受け入れたことで何をなくし、そして何を新たに獲得してゆくのだろう。


数年前、日帰りのつもりで漁に出たまま黒潮に流され37日間の漂流生活を余儀なくされた武智三繁さんというおっちゃんがいた。覚えているだろうか。救出後の記者会見で「人間て、なかなか死なないもんですねえ」と飄々と語り、同席した記者の爆笑を誘ったアノ人だ。昨年、作家の吉岡忍氏が漂流してる間のことを武智さんにインタビューしてまとめた本が出版された。タイトルは『ある漂流者のはなし』。漂流記(といってもハリウッド映画のようなソレではなく単館系で上映される日本映画やヨーロッパ映画の雰囲気)としても大変おもしろいが、穏やかでユーモラスな語り口の裏に孤独な男の人生が垣間見え、なんだか無性に泣けてくる本でもある。孤独感っていうのは他人と分かち合えない、だからこそ孤独なんだと改めて思い知らされる。

ある漂流者のはなし (ちくまプリマー新書(014))

ある漂流者のはなし (ちくまプリマー新書(014))


漂流中の武智さんは、極限の状況下で、普通の人ではやらないのではないかと思われるような思い切りのよい選択を幾度となく見せる。例えば、水が残りわずかペットボトル半分までに減ったとき、彼はできるだけ長くとっておくより一気に飲み干すことを選択した。そこに水があると、「水を飲みたい」という欲求と「水がなくなったら死んでしまう」という考えばかり頭の中をぐるぐるとまわり、終始「水」のことばかり考えてる自分が不自由で、ひどくストレスを感じてしまったからだそうだ。だからあえて「水」そのものを目の前から無くしてしまう方を選び、結果「考えることがひとつ無くなって楽になった」と。「もう全部、流れにまかせることにした」と語る武智さん。また、塩辛くて水無しでは食べられない自家製の干物が唯一の食料となったとき、それも海に捨ててしまった。雨が降るまで待てば食べられるかもしれないと思ったが、そんな薄い望みに賭けるより、あえて捨てることで死への覚悟を決めたかったそうだ。「捨てるという行為に意味があったんだと思う」と武智さんは語る。


彼が記者会見でみせた飄々とした性格や、思い切りのいい行動の由縁について、著者の吉岡氏は「彼の暮らしてきた環境が大きく影響しているのではないか」と綴っている。武智さんはずっと独身生活を送ってきていた。「独りの時間が好きで、趣味で漁師をしていた」というほど、独りでいることが身に染みついてた。当時も久しぶりの漁だったため、漂流してからの数日は「なんとかなるさ」と呑気に海での生活を楽しんでいたという(笑)。全てが尽きてからもわずかな残り香を頼りに「たばこを吸ってるつもり」「コーヒーを飲んでるつもり」「頭を洗ってるつもり」という空想ごっこ、普通の人ならかえって虚しさを覚えそうなこの空想遊びによって幾度となく精神的な活力を取り戻していた。また、幼い頃から繰り返し「親しい人が突然周りからいなくなる」という経験をしてきており、「なくなってしまう」ことに対して「そういうものだ」と受け入れる術を身につけてきている人だった。まず、4歳の時に叔父さんを漁で亡くしいる。そのときの「あれ?いなくなっちゃった」という感覚はいまでもよく覚えているそうだ。また炭鉱の島として栄えた崎戸島で暮らしてきた。「崎戸炭鉱」といえば、いまや廃墟と化した炭住アパート群が立ち並ぶことで有名な廃墟スポット(画像)。『バトロワ2』の“戦艦島”ロケ地にもなった島である。現在の人口はわずか2千人足らずだが、炭鉱の島として栄えていた最盛期には2万人以上の人がいて街も大変賑わっていたという。しかし彼が中学にあがる頃には炭鉱産業に陰りが見え始め、その後わずか数年で閉山にまで追い込まれる。島からはどんどん人が出て行き、街はあっという間にゴーストタウンと化した。昨日までいた隣人がいなくなるというのは島ではありふれた風景となり、漁師の家に生まれ育った武智さんも島から出て行く同級生を何人も何人も見送った。港に行って紙テープを投げ合い「蛍の光」を歌う日が毎日にように続き、こんなに人がいなくなるのかと考える暇もないほど教室はガラガラになっていったそうだ。仲の良かった子も悪かった子も次々と転校してゆき、そのときの気持ちを「悲しいというより苦しかった」と表する武智さん。両親も武智さんが成人し都会へ働きに出てる間に事故や脳溢血で急死している。あまりにも突然で、死んだという実感がもてず、ただ「いない、いなくなった」という感覚だったという。そういった苦しい経験により、「物事に“こだわらない”ことにこだわる」という性格が武智さんの中に形成されていったそうだ。「どんなにこだわっても、どうせなくなっちゃう、いなくなっちゃうから」と。


私自身も「どんなにこだわっても、どうせなくなっちゃう」という感覚は深く根をおろしている。そのため、ある時を境に人や物に対する執着がパタッとなくなってしまった。なくなるきっかけとなったのは武智さん同様急激に押し寄せる「喪失感」だった。といっても「人」ではなく「記憶力」の喪失。もちろんいま流行りの若年性アルツハイマーでもなんでもなく、昔があまりに良すぎたことへの反動だと思う。「何を大げさな」と思うかも知れないが、自分にとって人に誇れる一番の取り柄が「記憶力」だったのだから仕方ない。学校の勉強も暗記力だけで乗り切ってきたし、成績が良くて褒められても「頭がいいわけでも勉強ができるわけでもなく暗記力のおかげだよ」という自覚があった。なのに、大学卒業したあたりから急激に物が覚えられなくなり、人の顔も名前も日にちも全然覚えられなくなった。記憶容量に限界が来たかのように、継ぎ足すことに苦労するようになった。覚えたことも思い出せなくなり、思い出しても「それが合っているかどうかの自信が持てない」という状態にまで陥ってしまった。とてもショックだった。自分自身の価値が根底から揺るがされた気がして、ものすごくショックだった。それ以来「どうせ忘れちゃうから」と思うと人に対しても物に対しても執着することが虚しくなった。「執着してるのなんて一瞬だ。どうせすぐ忘れてどうでもよくなる」と思ったら、いま目の前にあるものに執着することに価値を見いだせなくなり、元来虚無的な性格だったことも災いし、内なるニヒリズムは一気に加速していった。まあ、ニヒリズムもいきすぎたおかげで、最近では揺り戻しが起こって瞬間的な「執着」を長続きさせようとブログなんて書いて記憶の呼び戻しを図っているが、「仮に明日の朝全てが消え去っていてもショックなのは一瞬だろう。なくなったらまたゼロから始めればいいだけさ」とニヒリスティックにつぶやく自分もいまだ健在だ。


人や物への執着がなくなると性格は穏やかになる。あまり怒らなくなるし、気持ちも楽になる。「信号が青だった」とか「レジの姉ちゃんがかわいかった」とか日常のちょっとした出来事で多幸的になれる。でも、巷で「執着を捨てなさい」とかいう教えやらススメやらを見ると、それはどうだろう?と思う。「執着」ってたぶん人としてなくしちゃイケナイものだ。だから心揺れる人には忠告しておく。あんな口車に乗せられちゃいけない。


その昔、BS1で『夫には7秒の記憶しかない・元指揮者と妻の20年(原題:The Man with the 7 second Memory)』という海外ドキュメンタリーを放送していた。ウイルス感染により脳の一部に損傷を受け、7秒以上前の出来事を記憶できなくなった男のはなし。この人はわずかに残る記憶の断片と、いまこの瞬間に心からわき起こる何かに身を任せて生きてる。彼にとって時間は意味をなさない。いまどんなに楽しい瞬間をすごしても、それを未来の糧にできない。何故なら楽しかった出来事も数秒後にはリセットされなかったことになってしまうからだ。傍にいる妻は「まるで彼だけ時間が止まってしまったようだ」という。彼にとってはいまが全て。いま虚しければ、過去もずっと虚しかったことになる。だが、いま彼は非常に平温で穏やかな生活を送っている。「病気をして以来、私の意識はなくなってしまった。思考力はゼロ。夢も見ない。昼と夜の境もなく何の変化もない」と口癖のように語る。自分のことを「死んだも同然」と語る彼だが、「辛くはないか?」と問うと「辛くはない。死んだら何もできなくなる」と笑顔で答える。そして「いま何が一番欲しいか?」と問うと笑顔でこう答えるのだ。「ジントニック1杯とたばこ。それから消えていく記憶の中で妻を待ち続けること」と。どんなに記憶が消えても、この3点だけはいつでもかわらず彼を幸せな気持ちにさせてくれるアイテムなのだろう。ただ、彼の中では、妻と一緒にいることより妻を待ってることの方が幸福な瞬間としてより強く定着してるという事実がなんともいえない気分にさせられる。しかもそう語る彼の表情はとても幸せそうで、見てたら無性に泣けてきた。


発症してから7年の間、彼は混乱と絶望の中で躁鬱状態を繰り返し入院生活を余儀なくされた。毎日日記をつけていたが、普通の日記ではなかった。心が瞬間的な何かを捕らえるとそれを忘れないようにと「○時○分 私はいま目が覚めた」と書きこむのだ。しかしその数分後、同じ感覚が再びわき起こると日記を開き「これは私が書いたんじゃない」と言って、先ほどの書き込みに二重線を引っ張り「○時△分 私はいま本当に目が覚めた」と書き記す。だがまた数分後に「今度こそ本当に目が覚めた」、そのまた数分後に「今度こそ、絶対に、間違いなく目が覚めた」と何度も繰り返し書き直す。無理に記憶を思い出させようとすると、神経質に部屋を歩き回り癇癪を起こす。そんな生活が7年も続き、ようやく落ち着きを取り戻したが、一緒に暮らす妻はまるで再生テープを聴かされてるかのような繰り返される同じ会話に耐えられなくなり、彼を介護施設に預け彼のもとから離れてしまった。


しかし妻は再び彼の傍に戻ってくる。別れて暮らしていても、別れた夫のことが忘れられなかったからだ。ただしいまだ一緒には暮らせずにいる。どんなに楽しいひとときを過ごしても、夫は彼女が席を立ち目の前からいなくなった瞬間、彼女と会っていたことすら忘れて待ち人来たらずの状態に戻ってしまうからだ。それでも二人は、発症後もっとも穏やかで幸福な時間を過ごしている。



ちなみに冒頭で話した武智さんは、一躍時の人となったことで公演依頼が殺到。一時的に生活は潤うも、環境の激変によるストレスで酒に溺れ道ばたで段ボール被って寝ているところを警察に保護される。その際、一時的な記憶喪失にかかり精神病院へ入院。退院後は、公演依頼は途絶え、貯金も食いつぶし、生活保護を受けて暮らす。2006年7月、他人が海中に仕掛けた刺し網を引き上げて盗んだとして窃盗容疑で逮捕。執行猶予付きの有罪判決を受けている。



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「そろそろ上げてもいいんじゃない?」と思い、かつてシネマロサで行われた『放送禁止』オールナイトのトークレポを探して下書きフォルダをいろいろ漁ってたら見つけた記事。「新庄引退っていつよ?」と調べたら2006年4月18日だった。その頃書いてお蔵入りにしてた記事だけど、読み返したらこのままで全然イケるぜと思い、リンク関係だけ直して推敲せずそのまま載せておきます。で、肝心のトークレポは見つからず。。。こんなことなら当時ブログに上げとけば良かった(鬱)。