『一万年、後....。』を観た(@ポレポレ東中野)

これはスゴい映画。怪作。ボーッと観てると洗脳されそうだったので必死に抵抗してたら、頭の奥がムズムズしてきた。観終わってからも「ここで起こってたことはいったい何だったのか」と考えれば考えるほど頭の奥のムズムズが止まらなくなり、リピーター割引使ってもう1回観てきた。劇場が近くだったらあともう1回ぐらい観て記憶にきちんととどめておきたいほど個人的にハマった作品だけど、現時点で観客動員がかなり寂しいことになっているのでネタバレ全開で強く推します。いや、ネタバレか? ネタバレじゃないかも(汗)。同じように捉えた感想がなかなか見つからないので、たくさん観に行けば一人ぐらいは出るかもしれないという願望を込めてのネタバレです。尚、「観てきたけど、何観たの? 全然違う映画だったよ」なんて言われても知りません(笑)。おそらくそれは《電波の狂い》です。


映画「一万年、後....。」公式サイト
(9/8(土)〜9/21(金)までポレポレ東中野にてレイトショー)
※上映前(or後)にイベント多数。
 9/17(月)洞口依子『子宮会議』リーディングセッション with ファルコンギター
 (こちらによれば、イベント前に売店で売られる著書「子宮会議」に洞口さんがサインしてくれるそうです)
 9/20(木)宇波拓率いるHOSEのライブ演奏
 9/21(金)高橋洋vs沖島勲トーク


バランスをとるため、他の人の感想をまず始めにご紹介。

『一万年、後....。』の動員がイマイチだという話。みんなバカじゃないの?!?。この映画は表層的にはそう思われるのかも知れないキワモノ、トンデモ映画とはまるっきり違うよ。たった70分くらいの時間に、映画というものが世界と人生についてやれるありとあらゆることが詰まりに詰まった、空前絶後の濃縮映画なんだよ。絶対観に行かなきゃダメ。これ絶対!
「How It Is(佐々木敦の批評ブログ)」より

この作品は、映画というより、小劇場のアングラ演劇の舞台をそのまま映画にしたようなテイストの怪作だった。監督も演者も、映画の「文法」ではなく、舞台演劇の「文法」によって作品世界を作っているのは、意外であった。いまの日本にも、こんな映画があったとは。死者の目で、はるかな現世を見なおす。しかも斜めに。こういう世界、私は好きである。
「夜中のアコーディオン」より

つまらん前衛気取りの演劇とか、半笑いでつい観てしまう私としては、沖島さんのひねった変化球のようでいて、直球、直球、また直球はMかというぐらい痛いながらも素直に見たくなる。
(中略)
始めは、笑っているが、だんだん笑い声が聞こえなくなってしまった映画。
子どもの知らなさという残酷さ、冷酷さ。そこに、まじめに何かを教え込もうとする大人の異次元スイングぶり。笑いたいけれど、笑えない。
子どもの頃、日本昔ばなしで、闇の恐怖体験をしたことを一瞬思い出しつつ、想像すらできない一万年後の恐怖体験をした気になり、単純に笑ってすまされないのは、なぜか?
「どうする?どうすんの?」と、問い詰められる気にもなり、重い足取りで、劇場を後にした。
最後の最後まで体力のいる映画だった。
「ラジオ ルクセンブルク」より

内容は公式サイトに譲るとして、ビデオで観た感想を言えば「高密度」のひと言です。まず脚本が極めて精巧。現在と未来(一万年後だよ!)、さらに「昔ばなし」的過去の視点を交錯させながら、日常の風景を──撮影現場もろとも──そのままフワリと宇宙規模の虚空に浮き上がらせ、人間規模の常識をどんどん脱臼させてゆくスリルとユーモアが実に愉快です。さらに、室内劇的な舞台に映像を重層的に絡めた演出、空間的・時間的な<間>を的確にキャッチした撮影と編集、立体的な音響の造形、どこを切っても本当に密度が高い。それでいて、この高密度な設定の底から湧き出してくる「哲学的」な情景は、なぜか心の奥底にしんみりとしみてくる優しさがあります。監督が思索する宇宙の時間とぼくの日常の人間的な時間とが、どこか意識の奥の方でつながるような快感を覚えました。
「ハトポッポ批評通信」より

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映画の詳細は公式サイトか、めんどい人はうちで書いた以前の日記を参照・・・といってもかなり簡単なあらすじしか載せてないんで、沖島勲監督自身が語ったあらすじをこちらより抜粋しておきます(元はこちらのpdfファイル)。

タイトルは、『一万年、後…。』
今から一万年後、田舎に住む中学生の部屋に、一万年前(つまり現在)の叔父さんと称する男が、電波の狂いとかで落下して来る。
叔父さんと中学生の間にかわされる、奇妙な問答…。
部屋は何時しか宇宙の中の一室となり、時空は歪み…やはり電波の狂いとかで壁のスクリーンには、一万年前の叔父さんの母親が登場、叔父さんに説教したりする。やがて学校から帰って来た中学生の妹に、明日の誕生会で演じるべき芝居を、かつて映画監督であったという叔父さんが指導したりする。それは、膵臓(スイちゃん)と、それ等内蔵を持つ本体(中ちゃん)との間で演じられる、奇妙なドラマであった。
やがて、中学生と叔父さんとの間に、神を巡る問答があった後…叔父さんは再び、宇宙へ消えて行く。
……
SF的、童話的な、生の讃歌です。


映画『一万年、後....。』予告編



というわけで感想。ネタバレとかあまり関係ない映画だけど、気になる人のために一応宣言しておきますね。
以下、ネタバレします
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沖島監督の作品を観たのはこれが初めて。といっても「まんが日本昔ばなし」「新・ムーミン」「小さなバイキング ビッケ」といったアニメの脚本を多数書かれてきた人なので、作品自体は知らず知らずのうちに子供時代から慣れ親しんではいたようです。


本作で描かれているのはいまから一万年後の世界・・・のはずなのに、物語が進むにつれ「ここはほんとに一万年後の世界なんだろうか」という疑問が頭にこびりついて離れなかった。それがムズムズの原因。「記憶に関連した映像が部屋の壁に映写される」といった手法も含め、理由は複合的なものなんだが、なんというかねえ、すごく似てるんだよ。「伯父さんと兄妹」の関係が。何に?って「意識と肉体」の関係に。もちろん「意識(=伯父さん)」「肉体(=兄妹)」ね。


「肉体」っていうのは何でも知ってる。自分の身体に何が起こっているのか実によく把握していて、その都度最善と思われる対処をこれといった感情ももたず淡々とこなしてる。一方「意識」はどうだろうか。「我こそはこの肉体を支配するリーダー也」と声高に叫びながらも、下僕である「肉体」がいまどういう状況にあるのかこれっぽっちもわかってない。それでいて「自分のことは自分がイチバン知っている」と思いこむ傲慢体質。一心同体の関係にありながら、同じ言語をもたず、「意識」からの指令は「肉体」に届いても、「肉体」からのメッセージは第三者である医者を介さないと「意識」にはなかなか理解することができない。言葉が伝わらないからと言って「意識」が「肉体」の存在を軽視し傲慢になればなれるほど、「肉体」に起きた異常を察知し本気で対処するのはもっとずっと先のことになる。場合によっては命取りになる危険だってあるのだ。。。


電波の山をくぐり抜け一万年の時を旅してきた伯父さんが降り立ったのは、日本も米国も消滅した未来、同じ日本人でありながら同じ言語を持たず、変換器を介さないと話す内容を理解し合えない遙か未来の世界に住む血のつながった甥っ子・正一の部屋だった。正一の口から語られるのは絶望的な未来の現状。この地上において人類は既に少数派となり、人食い怪物が家の周囲を徘徊していた。奴らにいつ喰われるとも知れぬ状況下で暮らす正一・淳子の兄妹だったが、ふたりが迫り来る死の恐怖に怯えた様子を見せることはない。悪化する状況に動揺することなく、淡々と日々の生活を営んでいる。かつて映画監督であった伯父さんは、「明日の誕生会でやる演し物がきまらない。来年の誕生会はもう迎えられないからなんとかしたい」と悩む妹・淳子に、自分が撮る予定だったある芝居を伝授する。それはすい臓の「スイちゃん」がその持ち主であるニンゲンの「中(なか)ちゃん」に向かって「あんたが酒ばっか飲んで酷使するから俺の体調が悪くなったんだ」と説教するという内容。「このままじゃ共倒れだぞ」と言われたことで一念発起した中ちゃんはマジメに治療に取り組み完治。手に手を取り合ってふたりで悦びのダンスを踊る。。。淳子がスイちゃん、伯父さんが中ちゃん役で芝居の通し稽古が始まるんだが、それを見た正一がこう言うんだ。「叔父さんは酒の飲み過ぎで(膵炎をわずらい)糖尿病で亡くなった。その思いがこの芝居を作らせたのでは?」と。彼はこうも言っていた。「そもそも伯父さんには実体があるのか。幽霊みたいなものか。何故ここにきたのか」と。


伯父さんがこの部屋に落ちてきたのは母親のことを思い出したのがきっかけだった。一万年の時から眺めれば彼女の人生なんてほんのわずか。それを世話の焼ける子供達の心配に費やして終わってしまったことに嘆く伯父さん。すると部屋の壁に母親の姿が映写され、彼に説教するのだ。「心配なものが目の前にあるのに心配しないでどうするんだ。ふざけるんじゃねえ!」と。


母ちゃんに説教され、スイちゃんに説教され、芝居を通して人間は一人じゃダメだということ、誰かと一緒にいるから「笑う」ことができるということを思い出す伯父さん。神を巡る問答の果て、人類が死んでしまったら誰も見ていない誰にも見て貰えない風景がこの世に残されてしまうことに気づいた伯父さんは、ある決意をし、再び宇宙に帰って行く。。。


伯父さんは糖尿病で死んだと正一は言うが、ここに来たっていうことはまだ死んでないんじゃないかなあ。ここは彼の内面世界だ。絶滅に瀕してるのは人類じゃない。伯父さんの肉体そのものだ。酒の飲み過ぎですい臓を悪くし、己のすい臓が人知れず悲鳴を上げていたのにも気づかず尚酒を飲み続け、酷使し、その結果糖尿病を併発。「このままの生活を続けていたら来年の誕生日まで持ちませんよ」と医者から宣告を受け絶望の果てに生きる気力を無くし凹んでる男が、広大な宇宙に思いを馳せ、己や亡くなった母のちっぽけな人生を思い起こし嘆くうちに、《電波の狂い》が生じ、気づいたら自分の脳内にアクセスしていた。そこで男は己の肉体と初めて向き合い、対話し、彼らから直接説教を受けることで生きる気力を取り戻し、病気と向き合う決意をして再び元の世界に戻っていく・・・。これはそういう話じゃないのかなあ(まあ、インタビュー読むと全然違うらしいけど。笑)。


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ネタバレ終了


1回目を鑑賞し終えた直後に、「沖島監督は余命宣告でも受けたのか? これはそういった人間が撮る映画ですよ」と言ったのは上記の理由からでした。


以上。おしまい。



しかし、監督の「死生観」というか、世界と自分の「関係性」?っていうのかな。この『人類が全て死んでしまい、誰にも見られることのなくなった風景がこの世に存在し続けることが怖い』っていう感覚は面白いよね。まあ「人類」というよりは「自分がこの世からいなくなったあとの世界がどうなるのか考えると怖い」って言ってるような気もするけど(こういうの何論っていうんだったかな。忘れた)。自分には全く無い感覚なのでもっと突き詰めていって欲しいんだが、ほんとお客さんが入ってなくてねえ(苦笑)。道のりは険しい。


一万年、後....。 [DVD]

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-追記(2016.7.8)-
沖島勲監督も阿藤快さんもお亡くなりになり追悼上映で再見してきました。