『あたえられるか否か〜徳川埋蔵金120年目の挑戦』を観た(@アップリンクX)

映画の詳細は↓以前の日記を参照。


本作は、埋蔵金に群がる奇々怪々な人々の存在を白日の下に晒したという点で非常に意義深い作品になっている。埋蔵金伝説に興味を持ち個人的に謎解きにあたってる人は全国にいる。しかし、そういった人たちが「お告げがありました」「謎が解けました」とたびたび水野氏を訪ねてきていたとは知らなかった。中には「モザイクかけてあげた方がいいんじゃないの?」っていうぐらいイッちゃってる感じの人も含まれており、そんな彼らひとりひとりの単なる思い込みにしか聞こえない話に耳を傾け、「現場に行きたい」と言えば同行し、「掘りたい」と言えば掘らせてあげる水野氏の姿に、「これ、なんてボランティア?」と頭下がる思いだった。


赤城山にぽっかり空いた横穴の前で「この穴を掘ったやつは財産食いつぶして自殺したんだよ」なんて話をサラッと聞かされると、横穴のひとつひとつに夢破れた者たちの思いが地縛してるようでなんだかちょっとゾッとする。


インタビュー中、水野氏はたびたびこう吐き捨てる。「たとえ埋蔵金が見つかっても国にとられるだけ。うちには一銭も入らない。水野は頼まれたからやっているが、こんなこと関係ない人間が財産食いつぶしてまでやることじゃない。そんなのは水野だけでたくさんだ」と。それでも昔は埋蔵金に一攫千金の夢や希望を抱いていたようで、存命だった父親に「埋蔵金が見つかったらどうする?」という質問をぶつけてみたらしい。そのときに帰ってきた答えは当時の彼にしてみれば意外なものであった。ここでは伏せておくが、図らずも発掘を託されてしまった一族の複雑な思いが垣間見えるとても印象的な言葉である。


一日も早く全てを終わらせる。そして、自らと赤城山に群がる亡者たちを埋蔵金発掘の呪縛から解き放つこと、それが自分に課せられた使命であると水野氏は考えているようだった。


しかし残念ながら、埋蔵金を発掘しても水野氏の望むような事態にはならないであろう。埋蔵金発見のニュースは、更なる亡者を赤城山に呼び寄せる。これはもう間違いない。何故なら、水野氏の行為は亡者にとって「借金をしてでも掘る価値がある」ことを証明したも同然だからだ。かつて糸井重里が「あるとしか言えない」と言った《徳川埋蔵金》。このまま見つからずにいた方がいいのか、見つかった方がいいのか、私にはもうよくわからない。



素材が素材なだけに「編集・演出に更なる工夫を凝らせばもっと面白くなるんじゃないの?」という物足りなさを感じるのは、私がテレビ番組という枠内で水野氏や徳川埋蔵金を見慣れてきたせいだからだろうか。また、専門的なことについての説明があまりないので、謎解きや発掘プランに関する細かい部分がイメージしにくい。この作品にとって大して重要なことじゃないのはわかるが、水野氏や徳川埋蔵金のことをまったく知らない人が置いてかれたような気分になりやしないかと少し心配になった(テレビならこの辺りはCG等を使って視覚的に詳しく説明するところだからね)。


とはいえ、そういった細かい点さえ気にしなければ充分楽しめる作品であることに変わりはない。訪ねてきた埋蔵金マニアの中からこれぞと思う人間に声をかけ「いざ、発掘再開!」なんてくだりはほんともう少年マンガのよう。水野氏が唯一自分と同レベルと認めた男、高橋さん。颯爽と現れたその後ろ姿のかっこいいこと! 水野のおやじが見せる様々な素顔や新しくできた仲間との悲喜こもごも、放送コードギリギリの埋蔵金キ○ガイ(笑)が見たい人は是非アップリンクXへ。


上映は10/6(金)まで。

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