『奇談』を観た(@シネコン)

終了間際に観てきました。客は10人ぐらい。20代から50代まで見事に男ばかり。


映画の詳細はこちら。

『奇談』 11月19日公開


【監督・脚本】小松隆志【撮影】水口智之【プロデューサー】一瀬隆重 
【出演】藤澤恵麻/阿部寛/ちすん/柳ユーレイ/神戸浩/菅原大吉/土屋嘉男/堀内正美/白木みのる/一龍斎貞水/草村礼子/清水紘治
88min/2005年


【STORY】1972年。民俗学を専攻する大学院生・佐伯里美(藤澤恵麻)は、奇妙な夢を見るようになり、幼い頃のある記憶を思い出す。それは、小学一年の夏休み、東北の隠れキリシタンの里として知られる渡戸村で神隠しに遭ったというもの。一緒に神隠しにあった少年・新吉は今でも行方不明のままだった。断片的な記憶しかない里美は、失われた記憶を求め渡戸村へ向かい、村に伝わる聖書異伝「世界開始の科の御伝え」を調べていた考古学者・稗田礼二郎阿部寛)と出会う。そして2人は、村の一部にある“はなれ”と呼ばれる集落で、恐るべき奇蹟の一部始終を目撃することになるのだった……。

原作は言わずとしれた諸星大二郎の『生命の木』。

結論から言うと、ボロ泣きしました(悪いか!笑)。小松監督ありがとう。そして諸星先生ごめんなさい。初見時はもちろん、つい先だって『生命の木』を読み返したときもまったくもって記号的にしかとらえてなかったと思う。今ならすべての言葉が染み渡るよ。


なんちゅうかほんちゅうか(死語)、今回は如何に己が忘れっぽく、かつビジュアル優勢人間なのか思い知らされたですよ。「生命の木」ってあの「生命の樹」だったのかあ・・・。「知恵の木」「生命の木」って言われたときに気づけって話だよ。漫画に描かれていた《けるびん》の骨を何だと思ってたの?って話(反省)。あんな絵一枚出されないと思い出さないなんて、記憶回路、断絶し過ぎ(半泣き)。



数年前(もちろん『生命の木』を初めて読んだときより後に)、何かの小説を読んで「フリーメーソンについて一度ちゃんと知らねばならん」と思い至り、その流れで「カバラ」→「セフィロトの木(生命の樹)」→「天使」→「ユダヤ教」→「キリスト教」の順に関連本を読みまくったことがあった。そのときは「へー、おもしれー!(嬉)」って一気にのめり込んだけど、話が広がるにつれ情報を処理する能力が追いつかなくなり飽和状態。その後急速に興味は薄れていった。


映画『奇談』を観に行くにあたり、先日数年ぶりに漫画『生命の木』を再読。初めて読んだときに比べれば知識もある。しかしKEYとなる言葉を目にしても調べた知識とリンクさせることはなかった(そもそも調べてたこと自体忘れてたし)。映画を観てる間も同じ(原作にない神隠しの話が中心だからね)。ところが、物語も佳境にさしかかり、神隠しの謎を解くべく稗田・神父・里美ちゃんら一行が“はなれ”に赴き、そこで、、、


以下、ネタバレ


稗田が、アダムとイブ、知恵の木と生命の木、隠れキリシタン弾圧の歴史を次々と語り出したときに映し出された一枚の絵、「生命の樹(セフィロトの木)」。あれ観た瞬間「あー、そういうことなのか!」と。あのたった一枚の絵により、“木の実を食べると不死になる”以外の「生命の木」が内包する様々な要素が思い出され、その瞬間、点でしかなかったあらゆる情報が結びつき、目の前にそれはもうものすごい壮大な歴史が立ち上がってきたわけですよ。そこへたたみ込まれる隠れキリシタンの教え、《じゅすへる》子孫の歴史。。。既存の歴史と比較しないわけがない。同じ土塊から生まれた人類の始祖《あだん》と《じゅすへる》。アダム(あだん)とイヴ(えわ)からつらなる聖書の教えと、《じゅすへる》を加えた隠れきりしたんの教え。世界中に分布する何十億人というアダムの子孫と、地上にいるのはわずか十数人、世界の果て東洋の島国のそのまた東北の奥山で《きりんと》に救済される日を待ちながらひっそりと暮らす《じゅすへる》の子孫。同じ時を平行に走ってきた両者なのに、その差異に思いを馳せると、最高位の天使でありながら神に反逆し地獄に落とされた堕天使ルシフェル(《じゅすへる》の元ネタ)の境遇や、既存宗教から迫害された異教徒の歴史が、《じゅすへる》の子孫たちに重なり、気づけば“はなれ”の住人にどっぷりと感情移入。「善ずさま、おらもぱらいそさつれてってくだせえ」という思いでいっぱいになった。“はなれ”の人々はいったいどんな思いで骨山を登り、善次の脇腹を突き刺したのか。奇跡なんて起きないかもしれない。でも、このままではいずれダムの底。《いんへるの》にいる何十億、何百億という同胞たちと共に、永遠に苦しみ続けねばならない。さんじゅわん様の言うとおり、ほんとに善次は3日後に復活するのか。《きりんと》になれるのか。やるも地獄、やらぬも地獄。全ては善次ひとりの肩に掛かってる。


しかし、私だけは知っている(原作読んでるから。笑)。奇跡は確実に起こる。この後さんじゅわん様が出てきて、《いんへるの》を指さし、復活した善ずさまがやってきてみんなを《ぱらいそ》につれてってくれるんだ。つい数時間前までは、自分もぱらいそに行けず置いてけぼりにされる立場だったけど、今は違う。連れていってもらう気満々で、奇跡の瞬間に向け気分は高揚。予定どおりさんじゅわん様が現れ舞台がととのえられていくのを見ると「はやく、はやくぱらいそさつれてってくだせえ」と気持ちははやるばかり。


ところがさんじゅわん様が《いんへるの》を指し示した後に現れたのは、善ずさまではなく、神隠しにあった新吉だった。そうだ。里美ちゃんと新吉くんの物語がまだ途中だった。ほんとはちゃっちゃとぱらいそに連れてって欲しいんだけど、ここまで飽きることなく物語を引っ張ってくれたのは神隠しのパートだし・・・。というわけでしばし場を譲る。


もはやほぼ他人事となった別れのシーンを脇で見守るうちに、先ほどの高揚もいささか冷める。その後、ようやく善ずさま登場。「きたきたきたー!いよいよ始まるぞー!」と身を乗り出すも、この先は予告で何度も見てるシーン。しかも「ぱらいそさいく“ん”だー」の違和感がいまだ残るので*1、それほど感動しないかもしれないと思った。しかし心配は無用だった。一見貧相な善ずさまの顔がアップになり、そこから満面の笑みがこぼれた瞬間、ちゃんと気持ちのスイッチが入った。そして待ってました!「おらといっしょに、ぱらいそさいくんだー!」。光り輝きながら天上へと浮き上がった瞬間、ボロ泣き。奇跡体験疑似体験。光の十字架が消えるまで泣いてた(客が少なくてほんとに良かった。つーか、十字架消えるの早くね? もうちょっとこう楽しませてくれよ)。帰り道に宗教の勧誘を受けたらやばかったかもしれんね。「あなたは奇跡を見たことありますか?」って逆説教したかもしれん。


帰宅後、速攻原作を読み返した。言葉がするすると入ってくる。善ずさまの印象はちょっと違うけど、あれはあれでアリ。原作は明らかにキリストっぽいが、映画の善ずさまは、キリストというより、あくまでも「キリスト役として選ばれた人」という感じ。別に誰でも良かった、善次じゃなくても。でもぱらいそに行くためにはキリスト役が必要だった。そしてちょうどイエス(ぜずす)に似た名前の善次(ぜんじ)という男がいた。だから彼をキリスト役に仕立てた、という感じ。キリストである善ずさまがぱらいそに連れていってくれるんじゃなくて、キリスト役として選ばれた善次が復活すれば、ぱらいそに行くためのアイテムが全て揃う、だからぱらいそに行けるんだ、という感じ(わかりにくいか)。重太が連れていって貰えないのも、名前(重太=ユダ(じゅだつ))のせいではないのか。別に何か裏切り行為をしたわけでなく、ユダとはそういうもんだから仕方ない。善ずさまが「おらといっしょにぱらいそさいくだー」と言うときの声、笑顔には、皆をぱらいそに導く者としての峻厳さはなかった。ただただ「おらたちぱらいそに行けるんだー」という喜びで満ちあふれていた。だからこそ、彼らに激しく感情移入していた自分の心はボロ泣きするほど呼応したのかもしれない。


ネタバレ終了


ビックリしたのは、映画に出てきた教会のデザインが原作ととてもよく似ていたこと。あれは実存する教会だと思うけど、違うのかな(追記:ロケ地は東北隠れキリシタンの里に実在する大籠カトリック教会だそうです。コメントにて教えてもらいました。※教会の映像はこちら)。鉄道(これは何鉄道?)や渡戸村の家屋も非常に雰囲気があり(“はなれ”の家屋は作ったんだよね? 村の方はいつか旅行に行ってみたい)、特に感嘆したのは“はなれ”に通じる山の木々。ちょっと普通と違う。木々が不可思議に変形し、樹海に生えてるような巨木まであって、“はなれ”周辺の山だけ何か不思議な磁場の影響で木がまっすぐ生えない感じ。こんな雰囲気のある山よくぞ見つけてきた!と思って公式サイトで舞台挨拶見たら「富士周辺で撮影した」って言ってた(なるほど)。


どーんとこい超常現象の上田先生になってたらどうしようと心配だった阿部寛も終始抑えた演技で、短髪ということさえ気にしなければ稗田のイメージ。いろいろと不安視された藤澤恵麻も、今風でない見た目と素朴でたどたどしい感じが作品に馴染んでいた。周りのキャストが濃い顔、ピュア顔で揃えてきてるだけに、今風の女性(それこそ里美の友人みたいな)がヒロインだったら画的にはしゃぎすぎて邪魔くさかったと思う。東北弁が印象的な原作だけど、出てくる役者でネイティブな東北弁が喋れるのは菅原大吉だけ。どうするんだろうと思ったら、主役二人とのやりとりは、ほとんど彼と標準語が許されてる神父(清水紘治)に預けられてた。


尺をもたすために加えられた《神隠し》の話だが、話を引っ張る役目は十二分に果たしてたと思う。ただ、もう少し本筋と無理なく関連付けられると、まとまりがあって良かったけどね。やはり、、、


以下、ネタバレ


「聖書のイエスはアダムの子孫しか救ってくれない。《じゅすへる》の子孫を救うキリストが必要だ」と言ってるのに、アダムの子孫である神隠しにあった少年たちがぱらいそに行けるのは矛盾が大きすぎる。あちらが立てばこちらが立たずだが、せめてぱらいそに行ってしまった新吉だけは《じゅすへる》の子孫ということにしておいて欲しかったなと。そう思えなくもない要素はあるけれど(「両親が新吉を産んですぐ行方不明になった」とか、新吉が別れ際に里美に残した「おらと遊んでくれたのは里美ちゃんたちだけだった。人間の世界はもういやだ」とか。ちょっとうろ覚え)、神隠しにあっている間まったく年をとらなかった時点で脳内補完の余地がなくなる(年取ったら逆に画的なインパクトはなくなるけど)。


ネタバレ終了


個人的に一番ツボだったのは、“はなれ”の記録映像と、キリシタン弾圧の歴史を“人形”で伝えてたことだった。『ノロイ』もそうだけど、古文書、古書、記録映像は本物っぽくていいよね。じゃんじゃん作って欲しい。“人形”については、「拷問・弾圧・迫害の歴史は“人形”を使って伝えねばならない」っていうね(なんか塩田明彦風な言い回しだ)。歴史民族資料館で見た《隠れキリシタン弾圧の歴史》という展示物を頭の中で思い起こしてる感じ。金があれば蝋人形がベスト(笑)。



ノロイ』『奇談』と日本伝奇ものが続く一瀬隆重プロデューサー。正統派の『奇談』の客入りが惨敗なので資金集めは難しいだろう。しかし一瀬Pにはなんとかこのジャンルを続けてもらいたい。久しぶりに妖怪ハンターシリーズ読み返したけど、やっぱ《日本》って土地は相当に面白いよ。もっともっと《日本》を楽しみたい。


あと、川井憲次の音楽はいいね。フルで聴きたいのでサントラ注文した(届くまで予告で我慢)。

「奇談」オリジナル・サウンドトラック

「奇談」オリジナル・サウンドトラック



*1:直前に重太(神戸浩)も「みんなぱらいそさいく“ん”だ」と言ってたから、予告見た当初に比べると「いく“ん”だでもアリかな」という心持ちにはなっていた。