死生観−映画篇(瀬々敬久)−

「人生」にはまず「はじまり(=誕生)」と「終わり(=死)」があり、そこはもう絶対に動かせない。その代わり、始まりと終わりの間をどう埋めてゆくかはこちらにも選択権がある、、、というような話を前回した。実は似たようなことを言ってる映画がある。それが↓これ。瀬々敬久監督の『トーキョー×エロティカ』。

トーキョー×エロティカ [DVD]

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「圧倒的風景描写の中で生と死を見つめる」と紹介されることの多い瀬々監督。自分も「風景」ばかり話題にしてるけど、『RUSH!』以降の作品についてはその「死生観」にこそ共感する部分が多い。本作『トーキョー×エロティカ』はなんだか小難しい作品で、細かい部分についてはハッキリ言ってよくわからない(爆)。ただ、台詞の数々はストレートで、見てるうちに気持ちが上向いてくる。特に↓この部分などは、「おお、よくぞ言った!」とガッチリ握手を交わしたい気分だった。

自分が死ぬ最期の姿を見せられた主人公(佐々木ユメカ)は、「運命は変えられない」と語りかけてくる死神(佐野和宏)にこう尋ねる。
 「死ぬまでの時間をどう生きるかは自分で選べるの?」
死神は答えた。
 「それは俺たちの口出しすることじゃない。人生はおまえ達の船出。俺たちは最期の港だ」


そして再度最期の姿を見せつけた死神は、主人公になぞなぞを出すのであった。
 「朝は4本足、昼は2本足、夜は3本足、、、これなーに?」

このなぞなぞは、ギリシャ神話の怪物スフィンクス*1が道行く旅人に出したとされるもの。なぞなぞとしては割と定番だけど、正解は・・・「人間」ですね*2


本作ではドラマ部分の合間に役者へのインタビューが挿入されており、監督は次のような質問を各人に投げかけている。

生まれる前の時間と、死んだ後の時間、どちらが長い?

これは瀬々監督自身が長年ぐるぐると自問自答し続けた問いらしく、「そんなの同じだろ?」という答えは百も承知で「いやいや、もっといい答えがあるんじゃないか」と模索してる様が伺える。インタビューでは、監督に付き合い、ほとんどの出演者が何らかの答えを呈示してくれている。しかし年長の佐野和宏と年若い佐藤幹雄、この二人は違った。作品内で使われてるインタビューはごく一部なのでわかりづらいが、DVDの特典映像を見ると、「そんな問いに何の意味があるの?」と“問いかけ”そのものを「くだらない」と全否定している様が収録されており、それでも尚同じ問いを繰り返す瀬々監督の姿には、大槻教授から幾度叩かれても「それでも宇宙人はいるんだ」と頑張る韮沢先生を見ているような切なさと愛しさを感じてしまう(追記:ちなみに同じ問いは井川遥のイメージDVD『Mermaid 井川遥 [DVD]』でもなされている。職権乱用w)。


生まれる前の時間と死んだ後の時間、どちらが長い?


・・・私自身は「生まれる前の時間」とはすなわち「死んだ後の時間」だと思っているので、両者は「同じ」と考える。ただ、もし死後の世界があるならば、それを堪能する時間はちゃんと欲しい。「死んだらどうなる?」というのは、私が長年自問自答し続けた問いであり、死ぬ時の唯一の楽しみなので、死んだ瞬間に「おぎゃあ!」と産まれ変わり「なんだまた振り出しかよー!」となるのだけは止めて欲しいなあと切に願う(理想は『CASSHERN』みたいなの。「なるほど、そういうことだったのかー!」ってものを見せて貰えたらいいねえ)。


* * * * * *


「生と死」「死と再生」は、瀬々作品において繰り返し語られるテーマのひとつ。特に『RUSH!』以降のポジティブ路線では、生きるのが不得手な子らに「死とはこういうものなんだからそこに囚われるな」ということを様々な文脈で伝えようとしてるようにも見える。


トーキョー×エロティカ』と同じ頃、「井川遥主演で犬の映画を撮ってくれ」と言われて作った↓この作品。



こちらもテーマは「死と再生」。脚本は『トーキョー〜』同様、監督が一人で書いている。


本作は、年老いて余命いくばくもなくなってきた盲導犬シローが、幽霊となった飼い主(石橋凌)の尽力により人間の姿(豊川悦司)を手に入れ、幼い頃に自分を育ててくれたパピーウォーカーのハルカ(井川遙)に会いに行くというファンタジー作品。


「死」を見せることによって「生」を肯定しようというのか、瀬々作品では登場人物がよく死ぬ。本作も例外ではなく、監督は、幼い頃に家族全員を事故で失ったハルカに対し、追い打ちをかけるように次々と近しい人の死を経験させてゆく。ところが最後に訪れるシローの死を除き、その死はどれもあっけなく、数々の死を乗り越えハルカが成長してゆく様を描いてるようにはあまり見えない。ハルカはただ流れの中にいて、度重なる「死」は、まるでシローのような<別れを告げる側>に見せるため存在しているかのよう…。


本作では死んだ者が必ず幽霊となって現れるのだが、普通の人間にはその姿が見えない。見えるのは死期の迫った者だけ。幽霊になったシローの飼い主は、年端もいかない幼児に姿を見つけられたとき、その幼子の運命を悟りにこやかにこう語りかける。

運命を怖がるな。人生を思いっきり楽しんで待っていろ

生きてるものはいずれ必ず死を迎える。だからといって「生」は「死」へのカウントダウンではなく、「生」の終わりに「死」がある、ただそれだけのこと。だから恐れることはない。おまえに出来るのは今ある「生」を思いっきり楽しむことだ。。。


死ぬことは決して怖い事じゃない・・・それを体現するかのように、死んでもまるで悲壮感はなく飄々としてる飼い主。死者と会話できるシローは、生前と変わらぬ飼い主の姿を見て無邪気にもこう話す。

あんたを見てると死ぬのってそんなに大変なことじゃないような気がする

すると飼い主はシローを殴りつけ、こう吐き捨てるのだ。

おまえは何もわかっちゃいないんだよ、何も!

死を畏れることはない。しかし生きてることと死んでることの間にはやはり大きな隔たりがある。だから決して軽々しいものでもない。そんなことが死者の口を通し、生きてる者やまもなく死を迎えようとしてる者に語られる。


『ドッグ・スター』では普通の映画ならカットされるであろう或るシーンが長回しで延々と映し出されている。それは<火葬された故人の遺骨が骨壺に収められる>という身内の葬儀に参加したことのある者なら必ずや体験してるであろうシーンだ。私も祖父が死んだときに初めて経験し、<生きていた者が遺体、遺骨へと変わってゆく様を見る>という行為は、生者が死者を見送るときに必要不可欠な儀式だとそのとき強く感じたので、省かずきちんと撮られてるところに、監督の「死」に対する考えが表れているような気がした。


本作で一番好きな台詞は、走り去るシローにハルカがかける別れの言葉。

さようなら、ごきげんよう。明日も元気でごきげんよう

もう二度と生きて会うことはないであろう身近な人に対し、最期はこうやって笑顔で見送れたらいいなあと思う。


* * * * * *


幽霊の口を借りて「死」を説いた監督が、次にその役を担わせたのが、ちょっとやそっとじゃ死なない不老長寿の孤独なヴァンパイア。

MOON CHILD [DVD]

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本作の原案はビジュアル系で名を馳せたミュージシャンのGackt。そう聞けば誰もがこの設定はGackt発案だと思うにちがいない。ところがインタビュー等を読むと、どうも本人が本来やりたかったのはアジアン・マフィアの抗争劇だったらしく、それをヴァンパイアものに変えてしまったのが監督・製作サイドというのが真相らしい。


「生と死」という視点で見ると、本作の肝は、死に急ぐ若者(Gackt)に不老長寿のヴァンパイア(HYDE)をあてがったところにあるように思う。ヴァンパイアの栄養源は人間の血。たとえ理性で血を吸うことをやめようと思っても、非常に強い生存本能がそれを邪魔し、自らの意思で吸血行為をやめることができない。血を吸ってる限りは、脅威の生命力により、弾が当たろうがナイフで切られようが死なない身体であるため、事故や他殺によって死ぬ確率は非常に少ない。また、老いも病いもないから「もうこの人生おしまいにしたい」と思っても自然死は不可能。となると自殺でしか人生を終わらせることができない。それはつまり「死ぬときを自分で選ぶ人生を生きてる」ということ。



今は人間の若者と一緒にいるこのヴァンパイアも、かつては兄貴分にあたる吸血鬼仲間(豊川悦司)と二人で行動していた。でもその人はこう言って最期のときが来たことを彼に告げる。

見たいものはすべて見た

「あんたがいなくなったら俺は独りぼっちになる」とすがる若いヴァンパイアに「また作れよ、トモダチ」と一言残し、生命の源である海のほとりで太陽に身を灼き自らを火葬した兄貴分。


若いヴァンパイアはほどなくして新しいトモダチを見つける。それは死に急ぐ若者。自分のせいで仲間が殺されたと嘆き、妻が他の男に惚れてると誤解しては、「自分は誰にも必要とされてない。だから生きていてもしょうがない」とのたまい、病身の妻の看護と一人娘の育児を放棄し、殺されるために単身敵討ちに乗り込む自暴自棄な青二才。


死に急ぐ若者に不老不死のヴァンパイアがとった処置が「ヴァンパイアにすること」。つまり肉体の生存本能が強く、ちょっとやそっとじゃ死ねないカラダにしてしまうことで、「生きる」ことから安易に逃げられないようにしてしまう。その上で改めて己の「生」や「死」を深く考えさせるという強硬手段に出たのだ。これはねえ、私のように『銀河鉄道999』でトラウマくらった人間にしたら、恐ろしいやり口ですよ。


本作は主演がミュージシャンということもあり、普段瀬々作品が対象としてるような観客層に比べればぐっと年齢が下がっている。ビジュアル系が好きな十代の女の子といえば、「死」に憧れたり自分がこの世に存在する意味とかに悩むお年頃で、そこらへんのことはかなり意識してるんじゃないかなあと。「こいつらまだ何もわかってないから、死にたい言ったからって安易に死なしちゃいかんですよ」みたいなね。


* * * * * *


瀬々作品と言えば、忘れちゃいけないのが<パラレルワールド>。ポジティブ路線になる以前からもちょこちょこ使ってたけど、とある作品でうまいこといってからは、ある種の逃げ道として多用するようになった。人間は生まれたらいつかは死ぬ。その運命からは誰も逃れられない。だから今ある人生を十分に楽しむ、、、頭では分かっていてもやはり「死」というのは大部分の人にとって受け入れがたいつらいもの。世紀末越えにより作風がポジティブ路線に切り替わった瀬々監督は、この問題への対処法として「ファンタジー」という大いなる武器を手に入れ、運命をあるがままに受け入れつつもパラレルワールドで対抗するという策を講じるようになる。とある世界にいる「私」という人間はある決められた地点で死ぬ運命にある。しかし、別の世界にいる「私」はとある世界の「私」とは違う未来を辿っているかもしれない。自分がいるのはどの世界か、それは誰にもわからない。。。いまいる世界での私は、1週間後に事故で亡くなる運命なのか、80歳で餅を喉に詰まらせ死ぬ運命なのか、考えたって答えなんて出てきやしない。だから、そんなもんに囚われ塞ぎ込んでる暇があるなら、いつお迎えが来てもいいように、いまある「生」を楽しめよと。その結果がどうなるかはそのときがきてのお楽しみ、というところかな。



哀川翔主演の『超極道』も○○もの*3だけど、本人よりスタッフ・キャストの色が強くコラボレート作品みたいな感じだったし、昨年公開された『ユダ』では<風景の瀬々>が復活し、また以前のような路線に戻った様子の瀬々監督。「生と死」のポジティブ路線は『MOON CHILD』でひとまず打ち止めといった感じだが、今後の展開やいかに。そしていまだ公開日が未定な黒沢あすか主演『Mrs.ミセス』の公開はいつになるのかなあ?


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というわけで、次回につづく

*1:ピラミッドにあるアレのモデルとなったといわれる怪物

*2:産まれた時はハイハイで四本足、それから二本足で歩くようになり、年老いて杖をつくため三本足になる

*3:ネタバレになるので伏せ字