死生観−死体・遺体篇−

前回のつづき。


「死」はあまり怖くない、ということで、その理由について思い当たる事柄を延々と話してきわけだけど、じゃあ「死体(遺体)」はどうかというと、こちらは「怖い」。子供の頃の怪奇・怪談話に出てくる「死体」というのは、ほとんどが「幽霊」「ゾンビ」と直結してたわけで、例えば壁に塗り込められた白骨死体や、『猿の手』の生き返ったゾンビ息子など、、、エドガー・アラン・ポーなどを読んだ晩は、あまりの怖さに本を見えない場所に隠して床についたぐらい。故に「死体」とは「幽霊」「ゾンビ」の源泉であり、だから「怖い」という図式がかなり長い間自分の中で出来上がっていたわけですね。とにかく死体は怖いぞと。


ところがここ数年、ちょっと考え方が変わってきた。自分自身が一番“身近”に「死体(遺体)」と直面したのは、数年前に起きた母方の祖父の死。それまでも親戚や父方の祖父母の死は体験しており身内の死というのは初めてではなかったけれど、当時は子供だったこともあって葬式も参加しなかったし電話でしか応対しなくなって久しかったこともあり、「死んだ」と聞かされ両親が落ち込んでる姿を見てもあまりピンとこなかったというのが実情。母方の祖父はというと、亡くなったときはこちらも社会人だったし、大人になっても毎年会いに行っていたため記憶に残る想い出も多かった。祖父が死んだ時のことについては以前の日記で一度語ってる通り。祖父の元へと向かう車中では無性に泣けてきたりもしたけど、遺体と対面した瞬間はすごく冷静だったんです。なぜかというと、寝かされていた祖父の遺体は、死後1日以上経ち、元々痩せてた事もあって、脱水でミイラのように縮んでしまって、「生気が無いってこのことなんだな」と咄嗟に思ってしまったほど。文字通り「魂の抜け殻」にしか見えず、直感的に「ああ、爺ちゃんはもうここにはいないのか」と思ったら、その行き先の方が気になって「泣く」という感情はどこかへ行ってしまったわけです。


葬式が済んで1年ぐらいは、幽霊番組見るたびに祖父のことを思いだした。その時に漠然と感じたのは、「死ぬと意識は拡散するのかも」ってこと。何故?と問われてもそんなことはわからない。ただ、生きてる時より祖父のことを思い出す機会が増えたことは確か。思い出す機会が増えるというのはそれだけ身近に感じる時間がたくさんできるということでもあり、それはひとえに、人体に留まってた意識が拡散してその一部が自分のとこにもやってきたせいなのかなとか適当な理由を考えてみたり。結局は突き詰めると人間の頭の中の話で済んじゃうんだけど、それもつまんないんで。


で、昨年。奇しくも「人体の不思議展」「死化粧師オロスコ」と、展示やドキュメント映画を通して、身内ではない人の実際の死体(遺体)と対峙する機会がもてたのだけど、これによってまたもや自己の「死体観」が揺さぶられることに。あ、その前に10年ほど前にTBSで放送された「オランダの安楽死ドキュメンタリー」があった。こちらは人が息を引き取る過程を延々と淡々と映したドキュメンタリーで、うーん、どっちから話そう。。。



追記:結局つづきは書かなかったので「死化粧師オロスコ」の感想だけ置いておきます。
『死化粧師オロスコ』を観た(@アップリンクファクトリー)