死生観−漫画・アニメ篇−

前回のつづきです。


大概の人は「死ぬのが怖い。終わりのある人生なんてイヤだ」と言うけれど、ぶっちゃけた話、私は「永遠に続く生(せい)」の方が怖い。何故そう思うのか。実は幼い頃にそのような思想を植え付けた作品が存在したのです。

銀河鉄道999

まずひとつめが、今から25年ほど前に放映されたTVアニメ『銀河鉄道999』です。説明するまでもなく「顔は不細工だが戦死の魂を持つ心優しき少年・星野鉄郎が、一生死なない病気にもならない機械のカラダを手に入れるため、美女メーテルと共に銀河鉄道999に乗ってアンドロメダまで旅を続ける」というあれですね。1978年9月から1981年3月の約2年半にわたり放映された*1この作品は、最終回から半年の後に劇場版「さよなら銀河鉄道999」というタイトルで番外編が作られ、再びファンのもとに帰って来ました。しかし実はこの映画がとんでもないシロモノで、ラストで明かされる驚愕の真実により、当時まだ10歳にも満たなかった私は、子供心に強烈なトラウマを残されてしまったのです(汗)。

さよなら銀河鉄道999 -アンドロメダ終着駅- (劇場版) [DVD]

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人間が人間を喰らう・・・。世に存在するタブーのうちでもトップレベルの禁忌度をほこる*2カニバリズムが、子供向けのこの映画ではしっかりと描かれていたわけです。といってももちろんそのものズバリなものは劇中に登場しません。人肉に見立てたソレを機械人間の若いオネエちゃんがソレとは知らずに誇らしげに口に運ぶ姿に「ああ、こんなことしなきゃならないなら、機械のカラダなんて要らないよぉ。限りある生をまっとうするよぉ」と幼心に震えたわけです。


※放映年を調べてるときにたどり着いたTVアニメ版『銀河鉄道999』紹介サイトで「名言集」を読みふけっていたら、死生観のみならず人生観も『〜999』から影響受けてるのかなという気がしないでもない。。。


火の鳥・宇宙編』

そしてもうひとつ、『銀河鉄道999』より以前に「永遠に続く生(せい)の方が怖い」という思想を刷り込んだのが、手塚治虫の漫画火の鳥でした。うちは父親が手塚治虫の愛読者だったため、物心ついた頃から何かと手塚作品を読んでいたのですが、中でも一番のお気に入りが『火の鳥』・・・ではないな。話の流れでついうっかり書きそうになりました(汗)。すり切れるほど読みあさっていたのは『ブラックジャック』でして、生命や人体の不思議に興味を持つようになったのは確実にこの漫画の影響。その次が『火の鳥』です。人間の生と死を壮大な時間の流れの中で描いたこの名作シリーズのうち、とりわけ子供心に恐怖を感じたのが月刊マンガ少年別冊「火の鳥(第3巻)」に収録されてる『火の鳥・宇宙編』でした。この作品に登場するのは、人殺しに何の罪悪も感じないひとりの青年です。彼は火の鳥の怒りを買い、不老不死のカラダにさせられてしまいます。ナイフで刺しても拳銃で撃ってもすぐに傷口が塞がってしまうカラダ…。死なないカラダ…。死ねないカラダ…。宇宙の果ての流刑星にたどりついた彼は、老いて死ぬことも自殺することも叶わず、肉体のみ老いと若きを繰り返しながら、どんなに苦しくても生き続けることを強いられました。本作において“不死のカラダ”は、命を蔑ろに扱う者に与えられる<究極の罰>でしかなかったのです。

この星で彼は
また育っておとなになり
また若返って赤ん坊になり
これを永久にくりかえします
絶対に彼は死ねないのです!


特にビジュアル的に怖かったのが、乳幼児にまで退行した身体を周囲の目からごまかそうと、青年が自分そっくりのロボットを作り、頭部にパイルダー・オンして操縦してたという、物理的にかなり無理のあるツッコミどころ満載な驚愕の事実が明かされたシーンでした。“ロボット”と言っても、見た目は完全に“人間”なので、自分の身体の中、胸元から頭にかけての部分に赤ん坊がひとり入ってる状態を想像しては無性に怖くなったものです。




<恐怖>や<驚き>の感情によって幼き頃に刷り込まれた「死なないことほど恐ろしいモノはない」という思想は、大人になったいまでも抜けきらず、心のかなり奥深いところに巣くって、私の死生観にかなりの影響を与え続けています。「どんなに苦しくても自殺だけはしないなー、できないなー」と思うのは、“死ぬことへの恐怖”より、“痛みへの恐怖”や「自然の摂理に逆らって、万が一失敗し、更に悪い状況で生かされ続けたらどうしよう」という恐怖の方がはるかに勝っているからかもしれません。



次回につづく



一応、次は「死生観−映画篇−」を予定。


*1:ちなみに初代『機動戦士ガンダム』や、堺正章の『西遊記』や真田広之の『宇宙からのメッセージ 銀河大戦』もこの頃

*2:もちろん私主観