死生観−memento mori篇− 

前回のつづきです。


「人間、いつかは死ぬと思うと、何をやっても虚しくなることがある」という話をよく耳にする。先日フジテレビで、或る末期がん患者のドキュメンタリーが放送された。彼は「原発性肝細胞ガン」という肝臓の血管に出来る珍しい癌を患い、余命半年と宣告される。当時は極度のうつ状態に陥り、パニック障害を併発したそうだが、その後精神的に立ち直り、宣告された余命より長生きしながら、ハワイのホスピス小説を書いたり、HPで日記を書いたりして、穏やかに家族と余生を過ごしている。そんな彼も、病気になる以前は同じようなことを思っていたらしい*1


私自身は生まれてこの方そういう風に思ったことがないので、何故「死」を想うと「生」が虚しくなるのか、そこら辺の感覚が実はよくわからないでいる。おそらく、そう感じるための何かある部分が決定的に欠けているからなんだと思うが、それが何なのかはよくわからない。虚しくなる気持ちが“分かる”という人に“分からない”という感覚をあえて説明するなら、“料理人”という職業の人がが「どんなにキレイに盛り付けをして美味い料理を作っても、腹に入れば跡形もなく消えてなくなってしまう。それを考えると“料理を作る”という行為が虚しくなる」と言ってるのと同じようにしか聞こえない、といったところだろうか。・・・あまり説明になってない気もするけど(汗)。


もうひとつ欠けているものがある。それは、「死」によって人生が「寸断される」もしくは「終わらされる」という感覚。これについては、肉体は死んでも意識は何らかの形で残るんじゃないかと思っていることと、身内・親戚・知り合いが皆“病気”で亡くなってることが関係してるように思う。うちの家系は短命でがん家系、そう子供の頃から聞かされてたせいか、60歳まで生きられたら御の字といった「人生60年」思想みたいなものが、割と早いうちから出来上がっていた。子供にとって60歳なんて遙か先のことだし、60歳まで生きられたら後は余生、いつお迎えがきてもいいように備えておかなきゃみたいなね、そういう感覚。また、実家の本棚には子供の頃から『火の鳥』『ブラックジャック』『きりひと讃歌』『ライオンブックス』といった手塚マンガ、それに『カムイ伝』を始めとする白土三平マンガがごろごろしてたので、それらを読みながら「人間の一生とは」「生命とは」みたいなことを始終考えていたせいか、人生の最小単位は「産まれて死ぬことだ」と当たり前のように思っていたし、そのことを疑問に思うことも無かった。


「人生」にはまず「はじまり(=誕生)」と「終わり(=死)」があり、そこはもう絶対に動かせない。その代わり、始まりと終わりの間をどう埋めてゆくかはこちらにも選択権がある。輪廻転生により人生は幾度もやってくるかもしれないけど、「この」条件下での人生は一度きり。ならば有効に使わなきゃ損だよなあと。。。



次回につづく


*1:ついさっき入った情報によると、昨日の3月1日(ハワイ現地時間2月28日)に逝去されたそうです(訃報記事はこちら)。享年38歳。アクセスが尋常じゃなくなるので名前はあえて伏せました。心よりご冥福をお祈りいたします。尚、SSU STAFF DIARYにて告知前後の様子が綴られています。また、今日から公認ブログも開設されました(こちら)。