『姑獲鳥の夏』を観た(@シネコン)

観たといっても公開当時なのでもう1年以上前ですね。感想書き始めたらどんどん収拾つかなくなって挫折→放置してた下書きを久々に読んだら、意外とこのまま出してもまとまってるじゃん!と思い直しUPすることにしました。


 - - - - - - - - - - - - -


客は20代中心。100人くらいの劇場がほぼ満席で、年輩の人の姿もちらほら。実はデート・ムービー? カップル率高かったです。


『姑獲鳥の夏』 05/7/16(土)よりロードショー


【監督】実相寺昭雄【脚本】猪爪慎一/阿部能丸【撮影】中堀正夫
【出演】堤真一/永瀬正敏/原田知世/阿部寛/宮迫博史/いしだあゆみ/すまけい/田中麗奈/恵俊彰/松尾スズキ/寺島進/三輪ひとみ/荒川良々/堀部圭亮


「この世には、不思議なことなど何もないのだよ、関口君」


【STORY】昭和20年代末の東京では、ある奇怪な噂が世間を騒がせていた。雑司ヶ谷久遠寺医院の娘、梗子(原田知世)が20ヵ月もの間妊娠し続けて、おまけに夫・牧朗(恵俊彰)が密室から消えてしまったというのだ。行方不明になった牧朗を捜してほしいと、梗子の姉・涼子(原田知世・二役)が、私立探偵・榎木津礼二郎阿部寛)を訪ねてきたことから、その場に居合わせた小説家の関口巽永瀬正敏)も助手として捜査に加わることに。元・看護婦の変死、新生児連続誘拐、姑獲鳥の呪い……。調べれば調べるほど、新たな謎が出現する。その一方で、関口もまた、自分は昔から涼子を知っていて、この事件の当事者の一人であるという不可解な感覚に襲われる。「京極堂、頼む。久遠寺家の呪いを解いてくれ!」 ついに“憑物落とし”京極堂堤真一)が立ち上がる。果たして聞くも恐ろしい事件の真相とは……?


大正・昭和初期を舞台とする淫靡で怪奇な探偵小説。その魅力にどっぷり嵌った身としては、《昭和の探偵モノ》という素材に、認知や記憶といった心理学的要素、猟奇・妖怪・憑物落とし等のオカルト要素が加われば好きにならないわけがない!ということで、小説自体読むことの少なくなった昨今でも、唯一新作を楽しみにしてるのが、この京極夏彦「妖怪シリーズ」なんである。今回映画化された『姑獲鳥の夏』は、おぞましいシーンがあれやこれやと出てきてシリーズ中もっともエログロテイスト溢れる作品。それを、妖しげな帝都の世界を次々とスクリーン上に再現してきた実相寺昭雄が監督するのだから期待するなって方が無理ってもんです。


京極夏彦の書き上げた原作は情景のひとつひとつが細部まできちんと描かれているため、読んだ端からそこに描かれた情景を頭の中でビジュアル化してゆく癖のある自分にとっては、実写化せずとも既にアングルやカット割までビシッと決まった映像が出来上がっていた。故に、映画版『姑獲鳥の夏』を観るにあたっては、文章から想起したイメージと実際の映像とが頭の中でコンフリクトを起こすんじゃないかと心配な面もあったりなかったりしたわけだけど、しかしまあ、よくよく考えてみれば、頭の中に蓄積されてる風景素材には実相寺監督の作り出した映像も多数含まれているわけで、結果的には自分がイメージしきれないでいた部分を映画がうまいこと補完してくれる形となった。もちろん、視点の違い(小説だと関口巽の視点で物語られている)から起こるアングルの違いにちょこちょことまどったり、京極堂の家の広さやキャスティング、目眩坂といった、細かいところで再現仕切れていないor映画的にアレンジされた部分については気になる部分もあるけれど、映像的には概ね満足。パンフ見返すのも楽しいし、オフィシャル本も買っちゃった(笑)。古本屋の内装がまんま乱歩邸の土蔵だったのには笑ったけどね。


意外にも話はほぼ原作どおり。元の分量が多いので削られた部分もたくさんあったけれど、京極名物《蘊蓄語り》も時間をとって入れ込んであったし、大胆アレンジでごまかすことなく原作からうまく話をかいつまんで2時間に収まる“正統派探偵ミステリー”に仕上げてきたのには感心した。原作独自の持ち味は薄れてより一般化された感はあるけれど、魅力あるキャラが多数登場する妖しげな雰囲気に包まれた昭和の探偵モノとして観る分には及第点をあげられるんじゃないかと思った次第。




んで、こっから先は愚痴モード。故に長いです。お暇な人だけおつきあいを。


内容はかなり原作に忠実だったと思う。忠実な分、“ある種”の原作ファンとしては、取捨選択の「捨」の部分が非常に気になった(どういう種類の原作ファンかは、心霊好きのオカルト好きの心理学好きというところで判断してください)。脚本家の興味外だったのか、子供から大人まで楽しめる娯楽作品にしろとの命令がくだったのかは知らないけれど、個人的に「あー、そこ捨てたらダメだ。『姑獲鳥〜』がよくある探偵小説になっちゃうじゃん」と是が非でも残しておきたかった部分はことごとく捨てられた。まさか一番楽しみにしてたあの腹割りシーンまでもがスルーされるとはガックリである(子供なんて観に来やしないのに…)。



取捨選択のズレを最初に感じたのは、やはり《目眩坂》だろうか。いま思うと、あの坂見た時点で気づくべきだったんだな。「うち(実相寺組)は今回、正統派探偵路線でいくんで、あんたが見たい『姑獲鳥の夏』には手をつけないよ」というメッセージに。


たかが「坂」、されど「坂」。。。



小説において《目眩坂》は次のように描写されている。

どこまでもだらだらといい加減な傾斜で続いてる坂道を登り詰めたところが目指す京極堂である。坂の途中に木々など日よけになる類のものは何ひとつとしてない。ただただ白茶けた油土塀らしきものが延々と続いている。

言葉通りほぼ忠実に再現された《目眩坂》が映画には登場する。もちろん予算の関係で坂の長さは短くなってるけど、そこは一番のポイントじゃない。映画に出てくる《目眩坂》は路面が非常にでこぼことしており、そこかしこがえぐれて至る所におかしな傾斜を作っている。足下をよく見て歩かないと悪路に足をすくわれそうなぐらい。


小説では、京極堂からの帰り道、この坂を下る関口巽が何度となく目眩を起す。しかも決まって坂の七分目あたりで。まあ、精神的に不安定になってるときに、こんな坂を夏の炎天下に歩かされたら、悪路と暑さで体力も消耗するだろうし目眩も起こすだろう。でも、この坂で目眩を起こすのはそんな理由ではないのだ。


ここからネタバレにつき畳みます

《目眩坂》を歩く人が目眩を起こすのには、ある物理的要因が存在している。小説では、事件解決後、京極堂の家を後にした関口巽が、坂を下る途中で目眩を起こし倒れかける。そこへ、出先から帰ってきた京極堂の細君が通りがかり、次のような説明をしてくれる。

ここは危ないんですよ。この坂は何もないから、一瞬まっすぐ下っているように見えるでしょ。でもその実、右に傾き左に傾きして、ちょうどその辺りで逆勾配になっている。でも、たったひとつの目印の塀は、そんなことお構いなしにまっすぐに続いている。道路も狭いからどうしても目は塀の瓦の方にいく。すると船酔いのような状態になってちょうどその辺りで目眩がするらしいんです。

もちろん、同じ説明は映画でもなされている。しかし、スクリーンに映る《目眩坂》は、京極堂の細君が言うような「まっすぐ歩いてる」という視覚情報と「右へ左へ傾いてる」という体感情報の不一致によって脳が混乱をきたし船酔いのような目眩を起こす構造にはなっていない。塀の高さは不揃いで一直線に連なってないし、幅もそれなりの広さがあり、塀の瓦も目の高さより思いのほか高い位置にある。しかもこの坂はかなりの悪路。歩く人の視線は自然と足下にゆき、唯一の目印となる塀の瓦を見てる余裕があるとは思えない。瓦を見ないのであれば、「まっすぐ歩いてる」などという《誤った視覚情報》は入ってこない。故にこの坂では本来の意味での《目眩》は起こらないのだ。


全ての人が同じ世界を同じように見ているとは限らない。こう言うと「それはそうだ。もっともだ」と納得する人は多いだろう。でもそれは「印象や感じ方の違い」であって、「いま目に映っている映像そのものが、実は自分にとって都合良くねじ曲げられた映像であり、他の人と全く同じ映像を見てるとは限らない」という意味で言ってることに気づく人は少ないんじゃないだろうか。『姑獲鳥の夏』を書いた京極夏彦という作家さんは、目から入ってくる情報を、人間がいかに取捨選択し外界世界を自分の都合のいいようにねじ曲げて見ているかということを、作品を使って読者に疑似体験させようとしている。そこが、本作が普通の探偵小説とは一線を画しているところであり、心霊好きが昂じて心理学にまで手を染めた自分にとっては非常に魅力的に映る部分でもあった。


映画に出てくる事例はかなり極端だが、自分の目が外の世界をありのままに映してないことについて、いくら言葉を尽くして伝えても、実際に体験してみない限りほとんどの人が「知識」としてしか理解してくれないだろう。そこで京極夏彦は、関口巽という精神的に不安定で妄想や錯覚を起こしやすいオカルト話が大好きなカストリ小説家を登場させ、彼の目を通すことで、ゆがんだ世界を読者に「疑似体験」してもらおうと試みた。映画では違うが、小説だと関口の視点で物語が進み、彼の目から見たいびつな世界があたかも現実世界であるかのように読者は錯覚してゆく。そしてその錯覚を解くために、異常といえるほどに長い《蘊蓄語り》によって「認知心理学」についてのレクチャーが行われ、一方では、錯覚を起こさず見たモノをありのままにとらえられる探偵・榎津礼二郎を登場させ「歪んでない世界」も垣間見せる。読者の錯覚がピークに達し、それを解くためのお膳立てが十分に済んだところで、最後の仕上げ、《憑物落とし》という名の懇切丁寧な「全体解説」が行われるのだ。これにより読者は、自分が今まで見てきた不思議だらけの世界が、関口巽という男によって都合良く作り上げられた歪んだ世界であることを知り、この一連の経験を通して「なるほど。あの長たらしい蘊蓄語りで言っていたのはこういうことだったのか」と真に理解してくれるようになるのだ。


映画版『姑獲鳥の夏』は、《蘊蓄》と《憑物落とし》は入れ込んだのに、観客に《疑似体験》させる試みには欠けていた。『姑獲鳥の夏』で使われてるトリックの数々が認知心理学をベースにしている以上、《騙し》の効果を最大に生かすためにも、観客に誤った視覚情報を与え、ねじ曲がった世界を《疑似体験》させることが不可欠だったはず。しかし、スクリーンに映し出された映像はまっとうな視覚情報ばかりで、《目眩坂》のセット同様、「この世には、不思議なものなど何もないのだよ」という人の視点で物語られているかのようだった。


「この世には、不思議なことなど何もないのだよ、関口くん」


映画はこの言葉で締めくくられるが、京極堂が投げかけるこの言葉は、不思議なことを体験して初めて生きてくる言葉。しかしこの映画では不思議なことなど始めからあまり起きてないのだ。だから物足りない。


 - - - - - - - - - - - - -


ほんとはもうちょっと推敲して、もう少し何かをつらつらと書くつもりだったはずなのに、何を書こうと思ったのか今となってはすっかり忘れてしまったので、これにて終了。



妖怪シリーズ第2弾『魍魎の匣』は原田眞人がメガホンをとるらしい。『押し絵と旅する男』のイメージとダブる本作だけに私的には幻想映画っぽく撮ってほしいところだけどおそらくそれは無理なので、せめて『バウンス ko GALS』のような仕上がりでひとつヨロシクお願いしたい。