ドラマ『禍話(まがばなし)』とは何だったのか(後編〜小説『ねじの回転』との共通点)

前回、ドラマ『禍話』において「葱の回転」失踪から始まる下村家のエピソードは正直謎だらけであると語った。

考察のヒントになるかと本家『禍話』で似たようなリライトを探し、オリジナルの音源と聞き比べ、さまざまに考察した上で、それでも解けない謎が残り、最後のヒントであろう「葱の回転」という名の元ネタ、小説『ねじの回転』に手を出してみたんだが、、、これがもう、、、デジャヴしか起こらない小説で、「ああ、だからドラマ化にあたってわざわざこれを結びつけたのか」と納得しかないのだが、正直、地獄である。「何をしてくれるんだ」とドラマスタッフの頭を万力で締め付けて一捻りふた捻りしたくなるぐらいに。


『ねじの回転』とは

ヘンリー・ジェイムズによって19世紀に書かれた怪奇小説『ねじの回転』は、英国のとある田舎のお屋敷に家庭教師として赴任した若い女性が、天使のように美しく、無垢で愛らしい幼き兄妹(マイルズとフローラ)をいかがわしき男女の幽霊(使用人クイントと前任の家庭教師ジェセル先生)から守るべく奮闘した結果、痛ましい悲劇に見舞われるという幽霊譚である。

ところが、語り手である家庭教師の神経が嫉妬とプレッシャーから徐々に強迫的になってゆく上に、彼女の回顧録として語られるその幽霊譚は肝心な点が不明瞭。足りないピースを想像力で埋めていくと、新たな情報が絶えずミスリードを誘い振り回される。時に放たれる唐突なセリフに「はあ?」と声をあげ、遡って読み返すも、何も描かれてないどころか発言を否定する描写が丹念に綴られているだけ。「何を根拠に?」とイラッとしながら読み進めてゆくと、彼女ただ一人が「私は見た!子供達も見ている、いや、会っている!」と言い張るその幽霊が、現実なのか幻覚・妄想の類いなのかはっきりしないまま、衝撃のラストによって突如終わりを告げる。

正直「なにこれ?」である。「どういうこと?」「は? なにこの話?」と思って、注意深く頭から読み直すのだが、初見では素通りしていた様々な情報が引っかかり、幽霊はいるのか、妄想なのか、どちらの立場に立って読み進めても解決できない謎が残され、決定的な真相には辿り着けないように作られている。


ツイキャス『禍話』と小説『ねじの回転』の共通点

ツイキャスで配信されてる怪談番組『禍話』は、知り合いなどから入手した怖い話を、かぁなっき氏が番組で語り、そのいくつかはリスナーによってリライトされ(※「読みやすく編集された文章化」であって、「文字起こし」ではないことに注意)、より接触しやすい形で不特定多数の人間に披露されるという形をとっている。小説『ねじの回転』も家庭教師が体験した幽霊譚を、直接本人から聞いたという男性ダグラスがクリスマスイブに開催された怪談会で語り、それを聞いた友人である「私」によって不特定多数の人間に披露されるという形をとっている。


特に『禍話』では、「虚実の合間に魔が入り込み、気づけばあなたが次の体験者」と謳ってる通り、元々あった怪異話に「虚」が混ざることで更なる恐怖が生み出されることを期待してるふしがあり、番組で語られた話を「著作権フリー」とすることで、あえて語り直しの障壁を下げ、第三者によるリライトや二次創作がしやすい環境を作っている。そのため、一度はツイキャスを聞いて比較しないと、リライトされたものがオリジナルの話とどこまで同じなのかわからない、いわば「信頼できない語り手」である可能性が残存し、「リライトをそのまま信じるのは油断ならない」というのは↓「前編〜怪談ツイキャス『禍話』とは」で語った通り。
この「油断のならなさ」が面白さの一端でもあるのだが、「文字起こし」ではなく「文章化」となってる一番の要因は、かぁなっき氏の語りによるところが大きい。

『禍話』の語り手であるかぁなっき氏はだらだらとしたバカ話の合間に禍話をシームレスに織り込むという語りの手法をあえてとっているため、話の起点があやふやだったり、語りの最中に軽口や冗談、笑い声なども混在してくる。そのまま文字起こしすると「怖くない」要素が多くなるので、如何にかぁなっき氏の個性を消し、怖さに特化した読み物として文章化するかは書き手の解釈や取捨選択に依存することとなる。『禍話』は話の数が膨大で、長尺になると1本の話に20〜30分かかるため、初心者にはハードルが高い。手軽に読めるリライトがあるおかげで第三者がより作品にアクセスしやすくなるのだが、前述した通り「文字起こし」ではなくそれなりに書き手の編集が加わったリライトなので、かぁなっき氏の語りとは言い回しが変わってたり、情報が削ぎ落とされてたりといった違いが発生してる場合があり油断ならない。と言っても、音源も日本語なので時間さえかければ同一性の検証は容易だし、ドラマ『禍話』でも取りあげられた『9人いるゥ……!』のように書き手の表現力が試される話もあるので、音源と語りの違いを聞き比べ、削除された情報があればそれについて深読みしてみるのも楽しい。


小説『ねじの回転』も『禍話』リライトと似たようなところがあって、もとが英語なのでそのまま読むのはハードルが高く初心者はなかなか手が出せないが、手軽に読める翻訳本の存在によって英語ができなくても作品を楽しむことが容易となっている。ところが、日本語に訳す過程で、(語り手の個性をそぎ落としてゆく『禍話』リライトとは逆の手法、すなわち)「意訳」や「話し言葉による人物のキャラ付け」等が加わることでオリジナルとはニュアンスが若干変わってしまってる可能性が捨てきれない。本来ならば一度は原書と読み比べてみるべきなんだろうがさすがにそれは難しい…。幸いなことに、19世紀に出版された本作は、著作権が既に切れており(※『禍話』同様、本作も「著作権フリー」なんである)、この十数年の間だけでも5冊以上の翻訳本が出版されている。いくつか買って読み比べてみたところ、本によって文章の並び順や、訳語の選択、登場人物の口調やキャラクター付けなどが結構違う上に、「物語の解釈」に影響してくる箇所で食い違う場合があって、「1冊だけ読んでそれをそのまま信じるのは油断がならない」という思いを強くする結果となった。


油断のならない状況を生み出してるひとつの要因は、決定的な正解が存在せず解釈が複数存在することにある。そしてもうひとつ、作者ヘンリー・ジェイムズ

「見られるもの』の価値は「見る者」の主観との関係においてしか存在しない
光文社古典新訳文庫『ねじの回転』の「解説」より引用)

という視点から、読者を惑わせるためにあえて曖昧さの多い難解な文章で書いているせいだと言われている。翻訳にあたり、何が正解か分からないまま、いくつもの意味にとれる単語や意味深ながらも曖昧な表現を訳す難しさ。それも、ワンセンテンスが異常に長く、注釈や、注釈の注釈、心の声が思いつくまま少ない読点でシームレスにだらだらつなぎあわせられた文章を訳すとなると、挑戦しがいはあるが非常に骨が折れる作業となり、訳者あとがきには「ともかく終わった」「難解さに腰が抜けた」と翻訳にあたっての苦悩が書かれていることも多い。実際本書の解釈については読み手も苦労してるので、オリジナルを読んでる訳者が翻訳本を読んでる私らと同じように苦悩しているのを知れるのは嬉しいし、翻訳本を読み比べるのも楽しい。(※英語が出来れば、オリジナルと読み比べるという楽しさも味わえるのだが、いまのところまだハードルが高い…)



翻訳の難しさでいえば、例えば『禍話』の【例の女】にまつわるエピソードで「あったでしょ?」というセリフがある(※ドラマにも使われているが、リライトはされてないので音源で確認してほしい。音源へのアクセスは「前編〜怪談ツイキャス『禍話』とは」参照)。前後の文脈から「ほら、今そこに有ったでしょ?」という意味だと思っていたら、後に「会ったでしょ?」が正解だったことがわかる構成になっているのだが、小説『ねじの回転』もいくつもの意味にとれる曖昧な表現を提示し、情報を小出しにしてミスリードを誘うという手法がよくとられている。【例の女】の場合は最後に正解が提示されるので、音源をリライトする際に「あったでしょ」という言葉に適切な漢字を当てはめることが可能となり、意図的なフェイクや文字の打ち間違いというケアレスミスでも起こらない限り、リライトの書き手が読み手に対し、語り手であるかぁなっき氏の意図しないミスリードを誘うということはなかなか起こりづらい。しかし『ねじの回転』の場合は、肝心の正解がわからないため、訳者の解釈によっては言葉の選択違いで予期せぬミスリードを誘い、著者と翻訳者の二人の語り手によって日本の読者は大いに悩まされることになる。


せっかくなので具体的な例を示してみよう。語句の選び方ひとつで読み手の印象が変わる一例として「Well...I said things.」というセリフがある。これは幼き兄マイルズが「他の生徒に悪い影響を与える」という理由で退学させられたことを受け、家庭教師が「何をしたのか?」と問い詰めたときにマイルズが発したセリフなんだが、「他の生徒に与える悪い影響」が明示されないため、読み手はそれまでの情報から幽霊となって現れた使用人クイントが、生前、幼き少年マイルズに何か悪い遊びや言葉を教えたのではないかと邪推する。ところが退学の理由は最後まで明かされることなく物語は終わるため「things」の正解がわからない。前後の文脈から幾通りにも読み取れる状況でどういった翻訳がつけられているかというと、、、

A「あの…いろいろと言ったものだから」(光文社文庫
B「あの…口を滑らせたことがあって」(新潮文庫
C「その…意見したことがあって」(望林堂文庫)
D「えーっと…ぼく言ったの」(グーテンベルク21

A・Dは直訳、B・Cは訳者の解釈が入ってる。彼が何を言ったのか具体的な内容は最後まで明かされることはないが、このセリフのあとに「保護者宛の手紙にはかけないような酷いことを言った」ことだけは情報として提示されるため、「言った」と「意見した」ではかなり読み手の印象が変わる。
また、DはABCに比べ年齢設定が幼い。実はマイルズの年齢ははっきりせず「小さい紳士」「幼い兄妹」「寄宿舎に入るにはまだ早い年齢」と書かれているだけ。妹の年齢は「8歳」とされてるため10〜12歳の間といったあたりが想定されるのだが、実は元の小説は3バージョンあり、妹の年齢は最初に発表されたバージョンでは「6歳」だった。実際、読んでるときの印象もそれぐらいなので「8歳」と明かされたときは驚いた。



ドラマ『禍話』と小説『ねじの回転』の共通点

小説『ねじの回転』には、兄(マイルズ)と妹(フローラ)、男幽霊(使用人クインツ)と女幽霊(前任の家庭教師ジェセル先生)が登場し、女幽霊が妹に接触してきたかのような描写がなされている。一方、ドラマ『禍話』も、女幽霊【例の女】に加え、ドラマオリジナル要素として兄(葱の回転)、妹(下村加奈)、男幽霊(管理人)が登場し、女幽霊である【例の女】が妹・下村加奈に接触してきたかのような描写がなされている。


ドラマ『禍話』では妹・下村加奈がかぁなっき達の問いに不可解な返答をし「知ってるくせに」という態度をとっては視聴者を困惑させるのだが、小説『ねじの回転』でも兄マイルズが手記の書き手である家庭教師に対し同じような態度をしばしばとっており、「知ってる」とはなんのことなのか、皆目分からない状態を作って空中戦を誘い、読者を困惑させる。


ドラマ『禍話』では兄妹の近親相姦的な雰囲気を匂わせる描写が存在するが、小説『ねじの回転』に出てくる幼き兄妹にも、いかがわしき大人二人から何か性的でふしだらな遊びや言葉を教え込まれたかのように想像させる表現がなされており、兄妹の年齢が幼くなればなるほど早熟で不道徳な印象が強まる仕掛けになっている。



ドラマ『禍話』においてオリジナル要素の強い下村家のパートには、意味深なれど曖昧なセリフや描写が多く難解な作りになっているが小説も同じだ、ということは前述したとおり。小説が難解な理由にはもうひとつ、「小説に登場する《幽霊譚の語り手》が信用できない」という問題が横たわっている。


この小説に出てくる語り手は3人。

一人目は幽霊を目撃したという家庭教師の女性。彼女は若い時に体験した幽霊譚をその数年後に手記として書き留めた。目撃した当時にリアルタイムで書かれた日記ではないため、記憶が曖昧な部分や後付けで補強された記憶などもあるかもしれないが、時間が経ち多少冷静に当時の自分を振り返ることは出来ているため、手記の後半になって「最初に女の幽霊が現れたとき、確証もないまま妹フローラもその幽霊を見たと言ってしまった。あの時はああでも言わないと自分が保てなかった」と反省して読者を困惑させたりする。

二人目は、大学2年の夏、帰郷した実家で妹の家庭教師として出入りしていた彼女と出会い、この幽霊譚を聞かされ、亡くなる前に彼女から手記を託された男性ダグラスだ。自分より10歳も年上の彼女に惹かれたダグラスは、休憩中よく話をしに行き、過去の恋愛話を訊く過程でこの幽霊譚を聞かされた。彼女が亡くなって20年、出会った夏の日から数えて40年間、ダグラスは家庭教師のことも幽霊譚のことも手記の存在も、誰にも語ることなく甘酸っぱい思い出と共に胸の内にずっとしまい込んでいた。死期を前にして怪談好きの友人たちに話すことを決意したが、その際、「内容を正しく理解するために必要」という理由で、彼女の経歴や、雇い主と交わした契約の条件、幼き兄妹や屋敷に住む使用人たちの情報、彼女に芽生えた雇い主への恋心などを友人たちに話して聞かせる。この事前情報には手記に記載のない情報も含まれており、ある種の先入観を抱く手助けにもなっているわけだが、彼の話には最初に出逢った夏の日以降もその家庭教師と交流が続いていたような描写がないため、なぜ彼の元に手記が送られてきたのかという疑念が起こる。そもそも長年存在をひた隠しにしてきた幽霊譚である。話に出てくる幼き兄妹と家庭教師の出会いや両者の年齢差は、ダグラスと家庭教師のそれとあまりに似通っているため、夏の日の彼女との出会いをもとにダグラスが考えた創作話の可能性もある。

三人目は、クリスマスイブの夜に開かれた怪談会で友人であるダグラスからこの幽霊譚を聞かされ、死の直前に彼から手記を託された「私」である。最終的にこの小説で披露された手記は、託された手記そのものではなく、「私」が随分あとになってから正確に書き起こした写しということになっており、すべてがこの「私」の創作である可能性も残されている。


語り手が3人いるって時点で、ドラマ『禍話』の語り手(かぁなっき・葱の回転・ドラマ『禍話』の脚本家)を想起させられるのだが、ドラマ同様、小説も読めば読むほど様々な情報が引っかかり、どこを起点(基点)に話を組み立てるかによって幾通りも真相が組み立てられてしまうため、「この感じ…デジャヴだ…」「ドラマ『禍話』で散々苦労してるのに、またいちからやらされるなんて地獄でしかない」と何度も悲鳴を上げた(汗)。


ちなみに、ドラマでは書き手である「葱の回転」が自身と妹の関係を怪談話に出てくる犯人とその妹に投影してリライトしてるのではないかと思わせる構造になっていたが、小説『ねじの回転』も、手記の書き手である女家庭教師には兄が、彼女の幽霊譚を語り直した男ダグラスには妹がおり、それぞれが幼き兄マイルズとその妹フローラに自身の兄妹関係を投影している可能性も匂わせる構造になっている。そのため、そもそもダグラス自身が幽霊譚に出てくる兄マイルズで、幼少期に体験した話を虚実交えて幽霊譚として創作したのではないかといった解釈も生まれてくる。
(※余談になるが、「ダグラスが妹の家庭教師に好意をよせていた」というエピソードが提示されたことによって、翻訳に違いが生じている。このエピソードを受けて、ある翻訳本では、幽霊譚に出てくる幼き兄マイルズが幽霊となって出てくる前任の家庭教師(若く美しいジェセル先生)に好意を寄せているかのような表現をしているが、別の翻訳本では冷淡な扱いで、どっちが正解なのか全然わからない…。)


ドラマ『禍話』では、「葱の回転」によるリライト版から下村家のパートに移る直前に、作者である「葱の回転」にリライト版のタイトルをつけてもらうシーンが挿入されているが、小説『ねじの回転』にも、ダグラスが幽霊譚を朗読する直前に、怪談会の参加者が「この話のタイトルは?」と問いかけ、ダグラス自身は「ない」と答えるも、「ひとつ思いついた!」と3人目の語り手となる「私」が答えるシーンが挿入されており、読んだ瞬間「うわっ、ドラマと一緒じゃん!」と叫んでしまった(笑)。タイトル命名式の直後に披露された2つの話、すなわち小説『ねじの回転』における「幽霊譚」とドラマ『禍話』における「下村家のパート」が同じ位置づけだとするならば、謎だらけの下村家パートも『ねじの回転』の幽霊譚同様、「真相は藪の中」「論争は100年続く」「切りがないので適当なところで終わりにしてください」というのがドラマ『禍話』を考察する上での心得ということになる。


『ねじの回転』というタイトルの意味

そもそもこの『ねじの回転』というタイトル、小説の中では、ダグラスが幽霊譚の存在を明かす際に、「幽霊話に子供が一人出てくることでねじを一ひねりするぐらいの効果があるなら、二人だったらどうだろう」「そりゃあ二ひねりだね」と言って語り始めたことが由来となっている。正直、兄と妹だけでも大変なのに、二人の幽霊、三人の語り手とひねりがキツすぎて(これはドラマ『禍話』も同じ)、地獄のような苦しみを味わわされてる身からすると、「二ひねりどころじゃないよね?(怒)」って物申したくなるぐらいなんだが、小説に起稿された解説文には「ねじの回転(Turn of the Screw)」「ねじを回転させる(Turn the screw)」という言葉には「ひねりを入れる」というプラスの意味以外に、以下のようなマイナスの意味があるという説明がなされている。

  • 「(人に何かを強要するための)事態を悪化させる行為、追い打ち」
  • 「圧迫を一層加える、手綱を締める」

〜望林堂完訳文庫 訳者あとがき より〜

  • 「ひどい状況下で、なおさら無理を強いる」
  • くるりと回す、のではなく、ぎゅっと締め付ける、という語感で考える

新潮文庫 訳者あとがき より〜

これ自体は多大なるプレッシャーの中、様々な問題と対峙させられてる家庭教師が置かれた状況を表す言葉なのだが、小説を読み終わった読者は自分に向けられた言葉として受け止める。苦しむのは承知の上、むしろ更に苦しませることが狙いなのではないか、と。


「・・・とはいっても、作者の中では真相はひとつに決まってるんじゃないの?」と思いたくなるのが人情。謎と思われる部分にもなにがしかの意味があると。ところが、翻訳本に書かれた解説を読むと、そもそもこれは数ヶ月にわたり週刊誌に掲載された連載小説であり、作者自身は想像以上に読者が深読みしていることに困惑しているらしい(苦笑)。章変わりの始めにぶち込まれる唐突なセリフなんかも、おそらく「週またぎ」というのが真相なんだろう。「幽霊が出るぞ出るぞー」と読者を惹き付けて次号への引きとし、翌週買って読んでみたら楽しみにしていた幽霊シーンがない。いきなり「ついに出たのよ!」と第三者に語るシーンから始まるもんだから、面食らった読者は「はあ? 出てねーし!」と前の号を引っ張り出してまた読み返すという、よくある手法の走りですよ。100年以上前からやってるんです。



翻ってドラマ『禍話』である。勝手に代弁するならば

(視聴者)「下村家の話が全然わからないのです。何かヒントをください」
(制作陣)「『ねじの回転』は読みましたか?」
(視聴者)「読みました。あれは読者を苦しませるために書かれた小説で、真相は無いらしいじゃないですか。」
(制作陣)「そういうことだよ」
(視聴者)「え?」
(制作陣)「だから、そういうことだよ」
(視聴者)「つまり『ねじの回転』をやりたかったってことですか?」
(制作陣)「君の好きなように解釈すればいい。で、楽しんだかい?」
(視聴者)「地獄のように苦しかったけど、楽しかったです」
(制作陣)「なら、良かった。お疲れ様。そろそろ夏も終わりだね」
(視聴者)「・・・お、お疲れ様でした。可能ならまた来年もよろしくお願いします!」


というわけで、ドラマ『禍話』にまつわる一連の深掘りはここでおしまい。
ま、真相については私が「真相解明できないルート」に入り込んだから辿り着けないだけで、きっとネットの神様が解決してくれてると思います(丸投げ)。


オススメ翻訳本は?

ちなみに『ねじの回転』に興味を持ったがどれを買ったらいいのかわからないという方向けに、私が買った4冊の翻訳本について紹介しておきます。冒頭数ページは試し読み可能となってるため、実際に読み比べて自分の読みやすい本を買うのがベストかと。可能なら2冊以上買って読み比べてみて欲しいし、「解説」と「訳者あとがき」がとにかく面白いので、迷ったら全部買えばいいと思う(笑)。

光文社古典新訳文庫『ねじの回転』(2012年 訳者:土屋政雄 960円)

解説(23ページ)、作者ジェイムズの年譜(9ページ)、訳者あとがき(4ページ)付
※翻訳者はカズオ・イシグロの作品を手がけてる人らしい。作者ヘンリー・ジェイムズがどんな作家であるか、また発表された当時の時代背景や、当時この小説がどう評価されたのかがよくわかる解説。

グーテンベルク21『ねじの回転』(2014年 訳者:谷本泰子 440円)

解説(25ページ)、訳者あとがき(2ページ)付
※この100年の間に出てきた主な解釈が解説に列記されており、読んだあとモヤモヤしたくない人にはオススメ。真相について問われた作者ヘンリー・ジェイムズがなんて答えたのかもわかります。ただし、兄マイルズの口調が他の3冊に比べ幼く設定されてるので、できれば2冊目に選んでほしい。

新潮文庫『ねじの回転』(2017年 訳者:小川高義 490円)

訳者あとがき(14ページ)付
※翻訳にあたっての苦労が詳細に書かれていて共感しかない(笑)。オリジナルが3バージョンあるのでその違いについても説明されてる。

望林堂完訳文庫『ねじの回転』(2019年 訳者:毛利孝夫 300円)

訳者あとがき(8ページ)、1898年の雑誌連載時に掲載された挿絵付き
※原書にてイタリック体で書かれてる箇所にはすべて傍点が振られているのが特徴。塔の上にいる幽霊を目撃したときの挿絵もついていて家庭教師の発言に対する疑惑が更に深まります。

紹介した以外に、少なくともあと3冊あるようです。
ねじの回転 (新潮文庫)
ねじの回転 -心霊小説傑作選- (創元推理文庫)
ねじの回転デイジー・ミラー (岩波文庫)


尚、英語で書かれたオリジナルの原書は既に著作権が切れてるので、「ねじの回転」もしくは「THE TURN OF THE SCREW」で検索すると無料の電子書籍が出回ってます(私はiBooksで入手しました)。



お・し・ま・い