死者と生者を分けるもの、死してもなお生き続ける方法

「SWITCHインタビュー 前田司郎×五味弘文」を見る。前田司郎さんていうと大好きなNHKドラマ『お買い物』『徒歩7分』の脚本家ってイメージが強く、お化け屋敷プロデューサーの五味さんが対談相手とはいえ死者の話がメインに据えられるとは思わなかった(石井岳龍監督の『生きてるものはいないのか』も元は前田さんの戯曲だったのね。忘れてた)。彼の語る「他者からもたらされる情報によって、生きてる人が死んだことになったり、死んでると思ってた人が生き還ったりする。死者と生者の境ってなんだろう?」て話は、自分も昔からよく考えてることであり非常に共感した。

「人が死ぬときは人に忘れられたとき」って言い出したのは誰なのか。。。

私は自分が死んだらどんどん忘れて貰いたい派なんだけど(何故なら死んだ瞬間、私の方は相手のことをきれいさっぱり忘れるわけで、自分のいない世界で自分のことを永遠に覚えていて貰うことに死んでいく側の人間が固執することになんの意味があるのかなあというのと、覚えて貰ってもたかが80年とかそこらが限界な上に、自分は死んだら相手のことなんてすぐ忘れちゃうくせに“生きてる人には私のことをずっと覚えていてもらいたい”なんて呪いの呪文だとしか思えない。“だったら自分だって死んでもずっと覚えているべき!”って言い出すとすんごい怖い話になってゆくので自粛)、でもね、もし“自分が死んでも自分のことは一生忘れないで欲しい”と本気で思っている人がいるんだとしたら、「自分が死んだという事実を相手に報せない」っていうのもひとつの手だと思う。そうすれば、自分に関わる全ての人が死ぬまでの間、その人たちの頭の中でずっーと生きていられるから。「いや、死んだ事実は報せた上で尚かつずっと忘れて欲しくないんだ」というなら、生きている間に特定の日付や特定のものにまつわる絶対忘れられないような奇行を繰り返し、子々孫々だけじゃなく近所の人にまで語り継がれるレジェンドになり、皆の口コミで都市伝説化してもらえばいい。もしくは定期的にメディアに取りあげて貰えるような歴史に名を残す大偉業・大犯罪を起こしたり、あとは・・・いや、ここで止めておこう。ストーカー気質の人にインスピレーションあたえそうな怖い話につながるから。


ちなみに現在公開中の前田司郎監督の新作映画『ふきげんな過去』は、死んだはずの叔母が実は生きていたって話なんだけど・・・・ああ、だから『横道世之介』の脚本を前田司郎が書くってことにはつながりがあったのか。