BS-TBS『宮崎哲弥 こころのすがた』トーク、養老孟司

2011年1月23日に放送された法医学者・養老孟司センセと社会学者・宮崎哲弥さんの対談。「人間は環境の内部なのか?外部なのか?」「意識と行動はどちらが先か」「死者と生者の線引き」「意識は常に“同じ私だよ”と言ってくれる」など非常に興味深い話が次々と展開されたのでHDDから消す前に一部メモっておきます。

環境と自分〜人間は環境の外部?内部?〜

宮崎「いつも環境問題を考えるときに疑問に思うのは、《人間》ていのは環境の外部なんですかね? 内部なんですかね?」


養老「環境問題でいつも生じてくる、根本のひとつはそこなんですよね。つまり《自分》ていうものを決めますよね。これ実は脳みそがやっているんですけど、“世界の中のどこに自分がいるか”っていうことをまず把握しておかなければいけない。ところがどこに自分がいるかっていうことを決めるためにはまず自分の《範囲》を決めなきゃいけない」


アシスタント「範囲ですか?」


養老「“どっからどこまでが自分か”っていうことです。そんなこと当たり前じゃないかって普通の人は思ってると思うんですけど、必ずしもそうじゃない。例えばクルマ持ってる人がね、誰かが自分のクルマ蹴っ飛ばしているとそりゃ怒るでしょ、普通。でもひどく怒って殺人事件になりかねない場合もある。これってクルマが自分になっちゃってるんですよ」


アシスタント「ああ・・・」


養老「要するに“自分の持ち物”とか“自分のもの”っていう感覚が強い人は《自分》の範囲が広い。で、どこまでが自分かって意外にわからない」


宮崎「普通“身体”が自分だと思うんだけど、例えば衣服を着てるでしょ? 衣服は自分の身体の“同化してる部分”で、人間の脳の構造っていうのはどんどんどんどん、そういう意味では拡張性があるので、例えば車を運転するとき車体感覚っていうのがとても重要でしょ? あたかもどこか車の後ろのほうに目とかついてたり神経が走っていたりするような風に(自分の脳みそが)どんどん環境を作り替えていくんですよね」


養老「それだけじゃなくてね、宇宙空間に放り出されたときのことを考えるとわかるんですが、絶対生きていけないわけですよ、この(身ひとつの)ままだったら。だから宇宙服着るんで。あれは何をしてるかっていうと、我々の皮膚の外が《環境》だとしたら、地球上の環境を宇宙服の中に少し分けて持って行ってるわけです。そうすると、実は環境と我々は《込み》になってるんで、両方ないと実は生きていけないわけだから。そういう意味で言ったら環境って《自分》なんですよ。だから近代になって《自分》てもの(=概念)を入れましたよね。そうやって《自分》ていうものを入れるとどうしても周囲と切り離さざるをえないから、暗黙のうちに(周囲と自分を)切ってるわけです。切ると“(自分の)外側はなんだ?”って話になって、(自分の外側は)自分じゃないから、それに対して我々は極めて無責任に行動するでしょ。そうすると長い目でみたときに妙なことが起こって来ちゃうわけです。自分のことだったら用心していろいろ考えるんだけど、自分じゃないと思っているから。これが面白くて、実は脳の一部がそれをやっているんですね。それが壊れると自分と周囲の境が消えるんです。それを本人がどういう風に感じるかっていうと、一番典型的な言い方は「自分が水になった」って言うんです。水になると形がないからだあーっと流れる。(四方八方に)流れていっちゃうでしょ? それが最後までいくと自分と宇宙が一体化するんです。それはものすごく変なことみたいだけど、理屈で考えたら当たり前で、こうやって物が見えてるっていうのは見えてるものが目の中にあるんですね。見えてるものが《自分》なんです、実は。外にあると信じ込んでいるだけで。そうでしょ? だからバーチャルでなんか出されたって目に映るわけ。で、在ると思ってるわけですよ。だけど、何故在ると思ってるかっていうと、自分の中にしっかり在るからでしょ? それは目に映ってるわけ。別の言い方をすると、《自分》ていう仕切りをとっちゃうと自分の中に在る以上、それは《自分》なんですよ。だから宇宙のことが考えられるっていうのは、考えてる宇宙っていうのが(自分の)頭の中に在るわけだから、それって《自分》じゃないですか。そういう風に考えると、患者さんだけに起こることかっていうと、実は、宗教の根本のひとつにも、それはありますよね」


宮崎「昔の、ヒンドゥー教のもっと昔の形態で《梵我一如》ってことを言っていて、全体宇宙と個我っていうのを一体化させる…先ほど(養老さんがおっしゃったように)自分が全宇宙になったような状況っていう、そういうものと同じ境地を目指すわけですよね」


養老「それは(脳の)ある部分が壊れてもそういうことが起こるし、壊れなくても宗教のようにそういうことを感じることができるようになるわけですね。そこの働きを上手に消してやれば。だからそれを別の言葉で《我》って言うんでしょうね。(すなわち)《自分》と。ですから、環境と自分はほんとは切れてないんですよ、見ようによっては。だって生きていくにはどうしても必要なんですから」

脳みその認知に関する話はほんと面白いんだよねえ。特に視覚認知に関する「自分がいま見てる風景は外界の風景を直に見てるわけではなく、脳みそによって再構築された映像を見ているに過ぎない」ていうあたりがね。外界を見ているようで実際は外界にある情報をもとに脳が作り上げた映像を見ているのであり、再構築された映像故に“見てるもの”と“見えてるもの”はイコールではない。脳の作りが人それぞれ違うように、同じものを見ても必ずしも同じように見えてるわけではないという感覚は、もっていると日常生活で結構役立つ。

意識と行動、どちらが先か

養老「考えればこうなるっていうのは脳の働きなんで、僕がしつこく《脳》って言ってるのは、“脳”っていうのは《カラダ》ですから、そうすると我々が“考える”っていう・・・難しくいえば《意識》ですけど、我々の“意識”ていうのは脳から出てるわけですよ。そうすると最近は脳を測れますからね。面白いのは、脳みそを測っていると、例えば僕がお茶を飲むじゃないですか。“お茶を飲みたいから飲んだ”と、“意識が先だ”と思ってるんです、普通。ところが脳みそを見てると脳みその方がお茶を飲むってことに向かって動き出してから、時間遅れですよ。半秒遅れで「自分は水が飲みたい」って意識が発生するんです」


アシスタント「お茶を飲むときは一瞬無意識だっていうことですか?」


養老「“お茶を飲もう”と思うのは、当然それ以前に脳が動いているから、飲む方に向かって。だから、意識が出来ることは“飲みたいと思ったけど飲まない”ってことはできるんです。意識で(行動を)止めることができる。だから倫理とか道徳は全部《禁止》の形をとるんです。「〜してはいけない」と。「〜したい」というのは勝手に起こっちゃうことだから」


宮崎「とにかく、近代の考え方っていうのは意識が先にあってその意識に従っていろいろ行動するっていう風に思ってるでしょ?」


アシスタント「はい、思ってます!」


宮崎「ところが脳科学の先端的治験で実験によって確かめられてるんだけど、常に意識っていうのは後できている。つまり《後付け》なんだよ、ようするに」


養老「「やりたい!」とかものをするってそうじゃないですか。ひとりでにやりたくなるんであって。だから若い人だったらね、男の子だったら美人を見たらついていきたくなるけど、これやるとストーカーになっちゃうんで、それを抑えるでしょ? 抑えることはできるんですよね」


宮崎「だから“美女がいて目で追う”っていうのは意識をせずに動いているわけ。反応として出てるわけ。その一瞬後に「俺は美女を見つめているな」て意識が生まれる、っていうそういうことなんですよ」


養老「だからむしろ意識って氷山の一角と思った方がいいんですよ。だから例えば我々が新聞読むときだって、(ある一点を指さし)ここを読んでるって思ってるわけですよ。意識は。でも実はもっと先まで読んでるんですよ。それもわかってるんです。それはまったくの無意識だから本人はわからないわけですよ。読んでるってことが」


宮崎「視野の端には入ってるでしょ?」


アシスタント「はい」


宮崎「それを読んでるというつもりは自分にはないけど、どんどんどんどん先に見ていってるっていう。そういう意味では、カラダもコントロールできないけれど実はココロも意識もコントロールできていないっていうことが明らかになるわけですよ。そうするとそもそも《自分》というのは、《私》っていうのはなんなのか。これは完全に加工された、ある種進化の途上で仮のものを持つことが優位だったんでそれが獲得していた一種の幻想にすぎないのかっていう」


養老「そうですね、人間が持つ・・・特に人間が持つようになったんだと思いますね。だから動物の中で特殊な社会を作って特殊なことをするんですよね。それはいいも悪いもないんで、人っていうのはそういうもんですよっていう」


宮崎「それはやっぱり生存に適していたから」


養老「いや、どうでしょうねえ。確かにそういう面はあるでしょうけど、生存に適するっていうのはそれこそ環境次第なんで、ゾウの牙とか考えるとあれで生存に適してんのかなあって思いません?(笑)」


宮崎「イッカクの歯とかね」


養老「立派といえば立派ですけど。それと似たようなことでしょ。人の脳も。非常に大きくなって、ゾウの牙みたいになってきているのかもしれないけれど」


宮崎「とすると進化の隘路に入ってるかもしれない」


養老「もちろんそうですね。隘路っていうよりも行き過ぎってことが起こりえますね。そういう性質っていうのは別に作ろうと思って作ったわけではありませんから、どうしても行くとこまで行くしかないっていう面ももっていますよね」


宮崎「それはひょっとすると滅びの道かもしれませんね」


養老「だから滅びるのもこれは定義によるんですね。そこまで行く必要はないよっていうことであれば、いづれ適当なところでおさまるでしょうね」

個人的に《意識》自体は、身体に触れるものをセンサーで感知し体内に取り入れるだけで栄養を確保できる状況じゃなくなったときに、自分の外にある複雑な世界の状況を個別ではなく総合的に判断し行動する必要に迫られたことで、個別に発生してたものが《意識》として統括され、他者とコミュニケーションを取るために進化してった気がするけどね。だから、外界から遮断された環境で栄養分を常時管から送り続けるってことを続けたら、他者の存在がなくなり、反射だけで生きていけるようになって、使わなくなった神経回路がどんどん死滅してゆくように、《意識》という形のものもなくなる方向に進んでいくんじゃないのかなあ。

三人称の死

宮崎「あのー、《死》っていうのは人称に別れていて、一人称・・・この私の死、ですよね。で、二人称というのは近しい人、近親者の死。そして三人称というのは第三者の死。解剖されたご遺体、死体というのは三人称の存在…」


養老「基本的には三人称ですね。《死体》という言葉がそもそもそれを示していて、近親者の死体を「死体」って言う人いませんから。名前で呼びますからね、「お父さん」とか。子供だったら名前で呼びますよ間違いなく」


宮崎「で、何体も何体も解剖されたと思うんですけど、どんどん積み重ねていくうちに《死》に対する考え方って変わりました?」


養老「変わったって言うよりも、それまで考えてなかったことを考えるようになりますね。いろんな・・・僕いま話してて思ったんだけど、やっぱ日本人だなあって思って。デカルトじゃなくて。あれは《概念》ですから。こちらは《感覚》なんですよ。死体は確実だって変な話ですけど。その人にとって一番確実なのは身体(しんたい)でしょ? まあ10年ぐらいすると考えるようになってくる。それまでは一種無我夢中でやってますけど、「はて・・・」と思う。たとえば学生のときに顔の解剖をやるんですよ。これは誰でも言うんですけど、アメリカにマイケル・クライトンって作家がいてね、あれもハーバードの医学部に一応行ってるんですけど、やっぱ“目”の解剖が嫌でってことを書いてますからね。もうひとつ嫌なのが“手”なんですよ。僕等は手袋なんて使いませんから、手の解剖をするときは相手の手を握んないといけないんですよ。これってものすごく特殊なもので、それはもう満員電車でもなんでもいいんですけど、隣の人の手をいきなり握ったらこれは大問題ですよ(笑)。だからね、非常に心理的に抵抗があるって気がするのね。顔の場合と手の場合とどうしてそういう風に嫌なんだろうなあっていうのが、その頃(10年ぐらい)になるとだいぶ理屈になってくるんですよ。結局それは《表情》だなと。我々が無意識に表情を読んでるからだなと。ところが動かない顔の表情って読んだこと無いから読めないものは不気味なんですね


宮崎「本来読めるはずだと思ってるものが読めない」


養老「無意識に読んでますからね、表情も。この人はイイ人だとか、人が良さそうとか人が悪そうとか意地悪そうとか判断してるんだけど、死んだ人はそれがないんですよ。動いてないから。そしたらある日、デパートで能面の展示やってて、なんと能面がケースに入っててそれを照らすライトが(能面の周りをぐるぐると)回転してるんですよ。やっぱ考えてるなあと思って。光が変わらない状態で能面見ると気持ち悪いですけど、ところが光が動いてると表情が見えてくる。そうすると逆に気持ちが悪くなりません。生きて動いてるんです」


宮崎「日本人て不思議ですね。なんであえて表情のある顔を表情のない面で隠して芝居をやるのかって、考えてみるととても不思議ですね」


養老「でもあれは、角度でまさしく表情が現れてくるんですね。だからそれぞれの面が最初から誇張したあるものを持っていて、それを動かすことによって微妙な表情を出すんですよね」


宮崎「そこが味わいになってくるんですね」


養老「そういうことに気がついてくると、だんだん相手の問題だけじゃなくて、死体っていうと皆さん客観的な事物だと思っちゃうんですけど、見る方の私の問題だろっていうことがわかってくる。普通の人に見えてくるんですよ。要するに目がひとつだとか脳みそがないとかいったことが気にならなくなっちゃうんです。これも人だなあて思えるようになってくる。それはどういうことかっていうと死んだ人が普通の人に見えてくるから」


宮崎「生きた人とおんなじ…」


養老「おんなじです。いつの間にかそうなっちゃったんです、ずっとやってるうちに。でもそれは当たり前のことで、生きてる死んでるって脳死であれだけ問題になるくらいほんとはわかんないんですから、どこで死んだかなんて。で、形があって本人だってわかる以上は本人だなと。人だなって」


宮崎「でも逆にそれは生きている人が、ある意味で、死体と同等のものに見えるということでもあるわけですよね」


養老「だからそこで次に僕は急に社会のことに関心を持つようになっちゃったんです。そこで「あっ!」と思ったのが、そうじゃないんです。日本の常識では死んだ人は我々とは別のものになってるんだってことに気づいたんです。だからJRでも警察でも死体があるとすぐに“ホトケ”って隠語を使う。なんで急にホトケになるんだろ。根本にあるのは《切る》ってことなんです。死んだら別だよと。我々の仲間ではないよと。我々の仲間ではないから考えたあげくに“ホトケ”っていうんですよ。これは非常に大事にしてる表現ですけど、死に方によっては“土左衛門”っていって(ホトケより格を)下げるんですよ。名前を上げたり下げたりするのは、これ典型的にいわゆる差別の問題、ですね。」


宮崎「ただそうなると、埋葬とか葬送ってこと自体はかなり昔から人類が慣習としてやってきたことだけど、死者を忌避するというか日常的な空間からいかなる形かによって排除してしまう、あるいは遠ざける、そういった操作というのは日本人に限らず人間はかなり昔からやってきたんじゃないかって気がするんですけど」


養老「でも日本ぐらい綺麗に《切る》文化は珍しいんじゃないでしょうか。だから僕ね、今度は墓地に興味をもって、外国に行くとよく墓地なんかに行くんですけどね、カメオってあるじゃないですか。顔が入ってる。あれみたいな形で死者の生前の写真をはめ込んであるとこがあるんですよ。これって僕等が見ると実に不気味なんですね。子供の写真とか生前の姿を墓に。これは日本ではまずやりません。そこにも綺麗に生前の人と死後の人は別だって綺麗に出てるし、戒名つけますよね。死んだら名前も変わるんです。それは全部何をしてるかっていうと、仏教とかそういうことよりもむしろ、日本の《世間》ですね。死者っていうものを生きてる人の世界から非常に綺麗に切る、区分けする」


二人称の死

宮崎「二人称の死についてはどう思われますか? (養老さん自身は)お父様を早くに亡くされたとおっしゃってましたが」


養老「それは非常によく記憶に残ってまして、さっき「どうして解剖を?」って言われましたけど、やっぱそれもひとつの理由かなと思って。非常に小さいときから《死》というものに慣れ親しんでいた。そういうことって一度起こった出来事じゃなくて、実は何度も繰り返して記憶の中に浮かんでくることなんですよ、臨終の様子が。自分がそういうこと考えてるんじゃない全然違う環境の中でいきなり出てくるんですよ、そういう記憶って。父の死ぬときの様子が。そういうことを若いときに経験していると、人が死ぬって一種当然のことですよね。しかも、私は4つ・・・5つになる誕生日のちょっと前ですから、実態はまったくわからないんですけど、でもそれが非常に鮮烈な印象としてありますから、まさに感覚的な。そうすると《死》っていうのはそんなに遠いことではないんですよ。よく思うんだけど、自分の記憶が親が死ぬところから始まってる人っているにはいると思うんです。でもそれって人生が逆転してるんですよ。だって死ぬところから始まってるんですから。普通は最後に死ぬんですけど、私の場合は始めに死んでるわけです」

一人称の死

宮崎「更に一人称の死について伺いますけど、そういう余生のようにして人生の初期に《死》ってものがあって、そのあとは余生、、、余生を過ごされてる養老さんにとって一人称の死、この“自分の死”っていうのはどういうものですか」


養老「だから、考えもしないんですね。つまり、今日もそうですけど、今日私はホテルから来たんですけど、途中で何があるかわからない。交通事故で死んじゃうかもしれない。死んでて「はてどうなるか?」っていうと、私は一切困らないなってことはわかるんです。困るのはこちらの方たち(番組のスタッフ)で、「あいつ、約束してるのに来ない!」って。なんと自分は全く困らないってことに気がついたんです。それで更に思うと《意識》って毎日切れてるんです。だって夜寝てるじゃないですか。寝てる間は「明日ほんとに目が覚めるだろうか」なんて心配しないでしょ? でも寝る理由もわかんなきゃ目が覚める理由もわかってない。それじゃあ明日目が覚めなくたって不思議じゃないですよ。「以上、終わり」でしょ。すると、自分の死っていうのは実は有るようで無いんです。意識がある限りは自分は生きてるんだけど、意識がなくなれば生きてようが生きていまいが関係ないわけですよ、私にとって。周りの人は「あいつはまだ生きてるな」と一生懸命管をつけていろいろやってるかもしれないけれど、それは周りの人の問題であって実は私の問題じゃない。そうすると私自身の死っていうのはこれは考えても意味がないわけ」


意識の持つ機能とは・・・

宮崎「考えてみれば、先ほど眠ってる間は意識がない、通常の意味でいうと途絶えてますよね。意識っていうのが常に行動の後付けであるならば、《意識》って連続したものではなくてものすごい短い時間に明滅してる、そういう存在であると言えるかもしれない・・・


養老「そうですよ、ホタルの光みたいなもんです。意識のもった一番大きな、人間の意識ですけどね、機能のひとつは、僕は“同じ”って機能だと思います。“同じ”ってものが意識の中に据え付けられてますから、そうすると戻ってくるたびに意識の中にある記憶は全部“同じ私”なんです。だから《私》って言葉はむしろいらないんですよ。“同じ”って働きがあれば意識は常に「自分は同じだよ」と言っている。この年になるとしみじみわかるんですよ。何故かって言うと、年取って目は見えないし、いろいろ具合は悪いし、随分以前とは違っているにもかかわらず、意識の方はなんて言ってるかというと「同じ私」って言っているんですよ」

おそらく《意識》自体は明滅してるもので、それに連続性を与えてるのが《記憶》なんだろうな。この番組はBS-TBSだけど、NHK-BS1で6年前に放送された『夫には7妙の記憶しかない――イギリス 元・指揮者と妻の20年(原題:The Man with the 7 second Memory BBC制作)』というドキュメンタリーでは、新しい出来事がまったく記憶できず常に長い眠りから覚めたような感覚が抜けないでいる男性が、ノートに「I AM AWAKE(私は目覚めた)」と書いてはしばらくするとそれが現実に思えず消してはまた「I AM AWAKE(私は目覚めた)」「I AM NOW AWAKE(私はいま目覚めた)」と1日に何度も書き記したノートなども出てきて、連続した記憶を持つことができない状況ってのがどれぐらい孤独で過酷なもので、その最悪な状況にいかに適応していったのかをとらえた貴重なドキュメンタリーなんで、万が一再放送される機会があったら是非見てみてください。

七秒しか記憶がもたない男 脳損傷から奇跡の回復を遂げるまで

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