大駱駝艦ドキュメンタリー『裸の夏 THE NAKED SUMMER』を観た(@渋谷イメージフォーラム)

観たのは2月なんだけど、目から鱗が落ちたので忘れないよう個人的にメモ。


舞踏家・麿赤兒率いる大駱駝艦が毎年白馬村で行ってる夏季合宿を追ったドキュメンタリー映画裸の夏』。この中で、麿さんが舞踏の動きについて講義してるシーンがあったのね。《舞踏》っていうのは自分のカラダの中(うち)から自然と湧き出てくる流れだったり動きをくみとり表(オモテ)に現してるもんだと勝手に思ってたんだけど、そこで語られていた原理は全く違うものだった。少なくとも麿さんの場合は。


普段オートマチックに行っている動き、「足をあげる」とか「ものを取る」とか、そういった日常の何気ない動きを獲得するまでに、人は幾多の無駄な動きを重ねてきているわけで、ひとつひとつの動き・所作が合理的なものへと洗練されて行く過程で捨てられ忘れさられてしまった動きをもう一度改めて「採集」「構築」するのが《舞踏》の目的であると(だからいつもどこか「不自由」な感じなのね。洗練される前の動きだから)。それから身体を動かすときは、自分の身体を取り巻く「空間」「間」(「間」には「魔」が棲み「神」が宿るって言ってたかな)を意識し、内からのチカラで身体を「動かす」のではなく、まわりの空間に「押されて」身体が「動いてしまう」んだっていう。この理論はちょっとショックでしたねえ。だって、うまく自然とシンクロできたら「個」とか「自分」というものは完全に無くなるわけじゃない? 「無」なのか「虚」なのか「空」なのかは知らんけど。「自分」が無くなれば周りからのチカラやうねりに抗うこともなくなるわけで、永遠に操り人形のように「踊らされちゃう」わけでしょ? 恐ろしい話ですよ。


-追記-
麿さんのきちんとした発言内容を知りたい方は↓こちらを参照されたし。
境界線上のアート〜麿赤兒 高松市美術館での公演より
ま、映像で観るのが一番わかりやすいんだけどね。DVDって出るんだろうか。


-追記-
出ました。