メイキング映画『GUN AWAY!』トーク、足立正生×藤井由紀×竹藤佳世(@UPLINK FACTORY)

実録・連合赤軍』のメイキングムービー『GUN AWAY!』を撮った竹藤佳世監督の司会により進められた本日のトークショー。ゲストは若松孝二監督の盟友であり元・日本赤軍足立正生監督*1と、急遽トークショーへの飛び入り参加が決まった大槻節子役・藤井由紀さんのお二人。


1時間ぐらいのトークでしたが、同じ日に『実録〜』を鑑賞し公式本も読んでなかった身としては実に充実したトーク内容となりました。連合赤軍と若松監督の関係性や時系列が明確になったことで、『実録〜』本編を観て感じた疑問、たとえば「なんであんなに《若者》であることが強調されているんだろう」「なぜ遠山美枝子が主役なんだろう」といったことについての解を得ることができ、点在していたものがようやく直線でつながったというか、ほんとに来てよかったです。


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まずは進行役の竹藤監督から紹介を受け「本来なら若松が来なきゃいけないんだろうが、いまARATAくんらと沖縄に舞台挨拶に行ってるので、今日は欠席裁判の裁判官のつもりでここに来ました」と言って会場を和ませる足立監督。若松監督は沖縄から帰ってきたらすぐまたブエノスアイレス国際映画祭に出席するため南米アルゼンチンへと旅立たねばならず(しかもわざわざロンドン経由で)、アメリカ経由でアルゼンチンに行けないのは足立監督のせいじゃないかって噂があがってるとか(苦笑)。


まずは今回の映画化について。「そもそもこれは昔から長谷川和彦が撮る撮ると言いつづけていた題材だった」と語る足立監督。彼が撮るならと長い間誰も手を出さずにいたのに当の本人がいつまで経っても撮らない。そのうち若い熊切和嘉が連合赤軍をモチーフに『鬼畜大宴会』を撮り、高橋伴明が『光の雨』を撮り、外の原田眞人が警察視点で『突入せよ!「あさま山荘」事件』を撮ったことにより、ようやく今回若松孝二が撮る気になったと。実は足立監督自身も遡ること30数年前、連合赤軍の話を映画化したいと思い脚本を書いて若松孝二に見せたことがあるそうだ。読んだその場ですぐダメ出しを受け、脚本は目の前でゴミ箱へ。書き直して再び持っていくと「前よりは良くなった」と言って読みもせず(!)ゴミ箱へ。「若松にしてみれば『ダメなりにも書き直したんだから少しは良くなってるだろ?』ということなんだろう。でもいまと違ってパソコンなんてもののない時代。捨てられるとまた一から自分で書き直さなきゃならならずタイヘンなんだよ」と笑いながら当時を振り返っていた。


メイキングの中で、若松監督が遠山美枝子との思い出を語り女優陣が涙するといった場面が出てくるのだが、遠山美枝子は連合赤軍に参加する直前まで足立・若松両監督の撮ったドキュメンタリー映画赤軍-PFLP世界戦争宣言』(71年製作)の上映運動に参加しており、若松プロに出入りしては炊き出しやビラ配りなどを一緒に手伝っていた仲間だったという。そんな彼女が「ちょっと行ってくる」と言い残し姿を見せなくなったと思ったら、山の中で遺体となって発見された、しかも連合赤軍のリンチによってと聞かされれば、本作を彼女への弔いのつもりで作ったという若松監督の気持ちも推して知るべし。


足立監督と重信房子との出会いは、71年夏に『赤軍-PFLP〜』を撮るべく若松監督とレバノンベイルートを訪れたときに遡る。現地通訳を手配したところ、やってきたのが重信房子。大使館側からは「給料は必ず払うこと」「撮影が終わったら必ず彼女をここまで連れて帰ること」といった誓約書をいろいろと書かされたらしい。親友どうしとして知られる重信房子と遠山美枝子だが、絆の深さを裏付けるエピソードとして、遠山が死んだまさにその時刻、ベイルートにいた重信が公園を歩いていると藤の木の下でそこにいるはずのない遠山美枝子の姿を目撃していたことが明かされた。


余談になるが、、、メイキングの中で板東國男役の大西信満さんが「板東は優しい男なんだからここの台詞はもっとこういう風に言わなければだめだろ」と若松監督から叱咤されてるシーンがあり、「なんでそんなこと知ってるんだろう。手記でも読んでそう感じたんだろうか」と不思議に思っていたら、この日のトークショーで足立監督が「若松はしょっちゅう僕ら(日本赤軍)のとこに連合赤軍の話を聞きに来た」「大西くんが演じた板東國男をのちに僕ら(日本赤軍)が奪還したわけだけど」と話してくれたことで二人が知り合いだったことにようやく気づいた次第(そもそも若松監督はあさま山荘内の出来事を板東本人から聞いていたのね)。『赤軍-PFLP〜』の撮影をきっかけに重信房子と知り合った足立監督は、74年に日本を離れ彼女らと合流。「当時は何も考えず“赤軍”という名をつけてしまったが・・・」と話していて「?」と思ったけど、「連合赤軍」と「日本赤軍」て基本的にはまったく別の組織なのね。若松監督の方が連合赤軍に熱心で、より当事者に近いと思っていた足立監督が微妙に第三者的空気を漂わせてる理由がなんとなくわかりました。


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一方、役者として『実録〜』に参加することになった藤井由紀さん。オーディションの話は各劇団にまわっており、自身もとても強く興味を惹かれたが、一次募集には参加しなかったという。実は彼女、あの「唐組」の看板女優。唐十郎が主宰者というだけあって、公演が決まると唐組は芝居に集中させるため他の仕事との掛け持ちが一切許されない。スタッフとして『実録〜』に参加してる知人から「難しい台詞が多いので舞台経験者の方が絶対向いてる。受けにいった方がいいよ」と再三誘われたが、劇団での自分の立場を考えるとどうしても最後まで踏み切れなかったという。しかしオーディションが終わってしまうとひどく後悔の念に襲われ、もし次に募集がかけられることがあったら何があろうと必ず受けに行こうと決めたところ、幸運にもまだ決まってない役があるとの連絡を受け、その場ですぐ「やります!」と返事をしてまったという。その後正式に出演が決まり、断腸の思いで唐十郎に報告に行くと、開口一番言われたのは「給料は出るのか?」ということ。実は唐さんも若かりし頃に『犯された白衣』という若松孝二監督の作品に美少年役で主演したことがあり、そのときのギャラが現金ではなく“伊勢エビ2本”。しかも唐サン、大のエビアレルギーで食べられなかったという苦い思い出があり、弟子まで同じ目に遭うんじゃないかと心配してくれたという(笑)。


映像作品に出演するのは初めてなので不安も多かったが、若松監督が「皮膚感覚を大事にしろ」と繰り返し言ってくれたことで気持ちが軽くなったと語る藤井さん。実は唐さんもよく口にする言葉なんだそうだ。粛正シーンの緊迫感は尋常ではなく、思わず涙が出そうになることもあったが芝居上泣いてはいけないと思い当初はグッと我慢してたとか。カットがかかった瞬間泣き出す人も多かったが、途中から、泣きたい気持ちになったのなら泣けばいいんじゃないのか、それが監督の言う「皮膚感覚」ってことじゃないのかと思い直し、以降は出てきた感情に忠実になることを決めたそうだ。


とは言っても、山岳ベースでの撮影当初はまだまだ気持ちの緩む場面も多く、そんなときに皆の気持ちを引き締め引っ張っていってくれたのが森恒夫役の地曵豪さん。彼が台詞を発すると場に緊張が走り自然と役に入り込めたそうだ。今日もトーク前にドキュメンタリーをここで一緒に観ていて、久しぶりに「森(恒夫)さん」の声を聞いたら「いけないいけない。また気持ちが緩んでる」と思わず反省してしまったとか。撮影は順撮りで、粛正シーンの撮影が終わるたびに風の音がゴオオオオオオッと鳴り響いていたのがとても不思議だったらしく、「今回の撮影はすごく《地の霊》に助けられてる気がする」と話していた。また、本作に出演したことは特別の体験だったようで、共演者とは「これをやる前の自分にはもう戻れない」なんてことをよく話していたとか。


尚、最初にもらった台本には、実名から二字ぐらいもらった「仮名」が役名として使われており、すべて実名で行くと決まったのは撮影に入ってからだそうだ。また最後に少年が発する「勇気」という言葉も、台本には書かれておらず、撮影中に盛り込まれたものだという(これが盛り込まれた経緯について足立監督から説明があったが、若松監督からの言質がとれてないのでオフレコにしておきます)。


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映画の中で語られていた「勇気」という言葉について、周りに流され判らないのに判ったフリをするのではなく、判らないと悩む自分を認めることが「勇気」なんじゃないかと語る足立監督。また当時の若者といまの若者を比べてどう思うかという問いには、「いまの若者の方がずっと賢い。当時の若者がいまの若者のように賢かったらあんな事件はおそらく起こさなかっただろう。バカで純粋だったからああいう方法しか思いつかなかった」と語っていた。若松監督にとって今この時代に本作を撮ることの意味とは何だったのかと尋ねると、「まず一つには連合赤軍のことをきちんとした記録として残しておきたかったということ。そしてもうひとつは、今の時代の若者に当時の若者を演じさせることだったんじゃないか」と語る足立監督。「演じる役者が当時の若者の気持ちを理解できなければ、映画を観るいまの若者に当時の若者の気持ちなんて何も伝えることができない」というのが若松監督の考えであり、それが成功した時点で彼にとっては作った甲斐があったのではないかとのことでした。



『実録〜』を撮ったことで左翼シンパと思われがちな若松監督だけど、足立監督は声を大にしてそれを否定。「若松は新左翼とか、組織とか、集団とかホントは大嫌いなの。若松が好きなのは《反権力》。そして《若者》。このふたつだ」と。つまり権力に反発する若者は正義であり、それにおいては右も左も関係ないというのが若松孝二のスタンスであり、それを裏付けるかのように次は刺殺事件を起こした右翼少年・山口二矢(当時17歳)を描いた時代映画を撮ることが既に決まっている。そのことについて「極左から極右とはまた極端ですね」ときくと、「だから若松には右も左もないのよ」と笑う足立監督でした。


関連:ARATA、大西信満と若松孝二監督自身が語る撮影秘話若松孝二監督単独インタビュー1,

[時系列]
71年2月 重信房子赤軍派)が日本を発ちベイルートへ。「アラブ赤軍」を結成。
71年夏  足立・若松両監督がパレスチナで『赤軍-PFLP世界戦争宣言』撮影、重信房子が通訳につく。
71年9月30日 『赤軍-PFLP世界戦争宣言』公開、上映運動に遠山美枝子(赤軍派)が参加。
71年12月1日 遠山美枝子(赤軍派)、新倉ベースへ。
72年1月 遠山美枝子死亡
72年2月 あさま山荘事件連合赤軍によるリンチ殺人発覚。
72年5月 テルアビブ空港事件
74年   足立正生、監督稼業を一時捨て一兵卒として重信らと合流。「アラブ赤軍」は「日本赤軍」に改名。
75年8月 クアラルンプール事件、坂東国男(赤軍派)を日本赤軍が奪還。
97年   足立正生、重信らと共にレバノン・ルミエ刑務所にて逮捕拘留。
00年3月 足立正生、刑期満了につき日本へ強制送還。
07年2月 テルアビブ空港事件をモチーフにした映画『幽閉者』(足立正生監督)公開
08年3月 『実録・連合赤軍』(若松孝二監督)公開


[参考]
若松孝二足立正生連合赤軍あさま山荘事件連合赤軍リンチ事件日本赤軍事件日本赤軍と東アジア反日武装戦線日本赤軍テルアビブ空港事件時代に生きた新左翼・歴史群像〜重信房子映画「パラダイス・ナウ」足立正生×ハニ・アブ・アサド監督対談


実は、、、もうひとつ非常にドラマチックな裏話が語られたんだけど、関係者が鬼籍に入らないと表に出すのは無理かもしれないです。本編を思い返すと「ああ、だからああいう態度なのか」「だからあそこであの台詞が出るわけね」と腑に落ちることが多々あるので、間違いなく若松監督自身も裏事情込みで演出をつけてるんだと思いますが・・・。「描写に違和感がある」って感想もチラッと見かけたんだけど、まあ仕方がないですね(実際私も本編を見たとき違和感を持ち、別の理由を想像することで脳内補完してたから)。ウン十年後に情報が解禁されたらもう一度見返してみて下さい。


*1:実録・連合赤軍 あさま山荘への道程』にもアドバイザーとして参加。デモ行進等の指導にあたった