『ザ・リング2』を観た

劇場公開時に観に行ったにもかかわらず、あることが気になってずーっと感想書けないでいた本作。字幕を担当したのがかの悪名高きナッチ(『ザ・リング』でサマラの母親が「66年に流産した」と訳さねばならないところを「66回流産した」と訳した人物。66回ってどんだけ呪われてるの!)故に吹き替え版で確認するまでは書けないなーと思いそのままになってたんだが、このほどようやく再見。一応の解決がついたので書くことにする。



気になってたのはサマラの人物像について。


以下、ネタバレ含みます。


私は昔からモンスターの悲哀を描いた映画がダイスキであり、この映画がいろいろあれどキライになれないのは、「ママ、ママ」とただひたすらに母の愛情を求めてるだけの幼き少女が、モンスターとして生まれついてしまったが故に、実の母親、育ての母親、そしてこの人こそ自分の本当の母親だと思った人物(レイチェル)にまで拒絶されるという非情な境遇に置かれてるところにあった。甘えたいさかりにもかかわらずどんなに愛情を欲してもそれが叶えられることはなく、幼き幽霊であるがゆえに精神的に成長することもなく、母の愛を求め永遠に生き続けなければならないというのが『A.I.』のデイヴィッドとも重なり、「私はおまえのママじゃない」と拒絶されたときのサマラの気持ちを考えると、この映画のラストには胸が痛む。


本作は、サマラを徹底して「母親の愛を求めるだけの無垢な少女」として描くことにより、ラストの浮かばれない展開をより際立たせることができたはずなんだが(それこそ『A.I.』のように。あの映画のラストは「泣く」ところじゃなくて「怒る」べきところですよ)、何故か「エイダンに成りすます」ような狡猾な人物として描いてしまっているのが不可解。サマラは幽霊であって悪魔ではないのだから、あの年頃の子にここまでの狡猾さを求めるのは間違ってる(ダミアンとは違うのだよ、ダミアンとは)。もしやまたナッチが誤訳でもして一人称の選定を間違えたのか?と思ったが、吹き替え版で見ても明らかにサマラがエイダンに「成りすましてる」と受け取れる台詞になっていたので元の脚本からそういう設定なんだろう。


エイダンの肉体を乗っ取ったサマラがそうとは知らないマックスに「ママはキミのことをとっても愛してる」と言われるシーンがあるのだが、そのときに見せる笑顔がほんとに嬉しそうでね。母親からの愛情を強く欲していたサマラだけに、「キミは母親(レイチェル)に愛されてる」と言われたのがよほど嬉しかったのだろう(たとえそれがエイダンに向けられた言葉だったとしてもね)。エイダン役の少年がそういった心の機微を上手く表現しサマラとエイダンを見事に演じ分けてくれる芸達者だっただけに、こういったサマラの幼く子供らしい面を前面に押し出すような脚本にしてもらえなかったのは残念。二言三言の台詞をいじるだけで「成りすましてる」感なんて排除できたんだが。もちろん、「僕」という一人称を使わずに翻訳する能力が求められるわけだが、ナッチでもそれぐらいのことはできるでしょ(ちゃんと頼めば)。