杉井ギサブロー(『哀しみのベラドンナ』作画監督)発言集

いまから34年前に公開された、虫プロ制作による大人向け劇場長編アニメ『哀しみのベラドンナ('73)』(監督・山本暎一)。この作品で作画監督(アニメ・ディレクター)を務め、山本暎一監督の思い描く世界を作品に反映させるためにスタッフを束ね、エロティックな感性が重要視される本作で自らもアニメーターとして斬新なエロス描写を創造し観客の度肝を抜いてみせたのが、アニメ界の巨匠・杉井ギサブロー氏。監督として人気アニメ『タッチ』『ガラスの仮面』や新版『キャプテン翼』を手がける一方で『銀河鉄道の夜』『あらしのよるに』といった良質な劇場作品を世に送り出し、日本画家(雅号:砂風)としての顔も併せ持つ。そんな彼のインタビューをいろいろと探し読んでみると、20年30年という長きにわたり強い信念を持って「アニメーションという技法を使って情感を伝えたい」「映画ってものは監督の世界をスタッフが広げ不特定多数の観客が各々の頭の中で完成させるものだ」と徹底して言い続けてる姿がそこにはあった。いやね、クリエイターとしてここまで作品を観客に委ねちゃってる人は珍しいかも。


というわけで彼の発言を少しまとめてみることにする。これと明日UPする山本暎一監督の発言集を併せて読めば、ギサブローさんが湯浅政明監督(「ケモノヅメ」)&スタジオ4℃(「鉄コン筋クリート」)によって制作された傑作長編アニメ『マインド・ゲーム('04)』のことを、『哀しみのベラドンナ』制作時の自分と照らし合わせてことのほか絶賛していた理由の根幹が少しは垣間見えるんじゃないかと思います。

杉井ギサブロー DVD『哀しみのベラドンナ』収録・スタッフ座談会より('86年10月『哀しみの〜』LD発売時収録)


「(イラストレーターの深井国氏を美術・キャラクターデザインに推薦した理由を問われ)ボクの中でもひとつの課題にしてた『アニメーションの映像っていつもディズニーでいいのかしら?』というね。それをぶち壊してくれるんじゃないかっていう期待感があった。」


「深井さんの描く【煙】っていうのは非常に直線的なんだよね。アニメーターが第一感として受け取る煙の質感っていうのは直線ではないので、「こんな煙ではアニメーションにならない」という反応がまず出てくる。そこでボクなんかは「そういう受け取り方じゃなくて、アニメーションがホントに直線の煙を煙として動かせないとすれば、逆にいえばそれがアニメーショーンの限界なんではないか。ふわふわふわとしたあの煙のイメージを破ることできないの?」ってそういう会話をアニメーターとしてゆくわけだよ。」


「非常に技術的な経験の積み重ねで、アニメーターっていうのはタイミングってものを24分の1コマで何年もかかって覚え込んじゃう。それを壊したら演技のイメージが浮かばない。だからホントは誰しも壊したくない。軸が無くなっちゃう。だけどそこに、要求されればどっかで自分の経験を壊してもう一度アニメーション・テクニックをやりなおすっていうところに挑戦するアニメーターっていうのはいるわけで、この作品でもそういう感覚がかなり生きてるんじゃないかね。」


「みんなで寄り集まってやるから【共同作業】じゃなくて、作品の軸になるコンセプトは監督が立ててるわけだから、その世界を広げてゆくためにはやっぱり大勢の人たちが共同で自分の能力を出し合ってって足して膨らませてゆく、そういう意味での【共同作業】を山本(暎一)さんの作品では思いっきりできる。ボクも自分で監督したりするけど、自分がモノを作りたいっていう意欲があるじゃない? それは別に監督でもアニメーターでもホントはなんてもいいわけで、細かいこと考えずに思いっきり創作性に打ち込めるという意味では、非常にやりやすい人でボクにとっては刺激があるんだよね。」


「ボクは暎一さんの作品をやるときにはホントにアニメーション・ディレクターという形で自由にやらせて貰えるから、気楽な立場で本気で自分がこうやりたいと思うことを突っ込んでいればいい役なんだけど、実際に世にこういうものを作品として送り出しちゃうプロデューサーとか監督ってのは大変な決断がいると思うんだよね。いまから14,5年前というその時代にこういうものを作品化しちゃう、それもこれ一般公開だからね。ボクは【長編】だからいいと思うんだよね。プライベートな短編でこういう作家個人の想いを乗せた作品はたくさんあると思うんだけど、長編でしかも一般映画っていうことは、普通の観客を対象にして作ってるってことだよね。」


「日本での普通、映画の鑑賞の仕方っていうのは、特に最近どんどんどんどんそうなってきてるんだけど、映画が全て自分に向かっていて全ての情報を映画の方から与えてくれるっていう誤解があると思うんだよね。でもボクは、映画っていうのは観客が観たときに脳裏の中で自分の経験とか人生と絡めて一つにしてゆく作業っていうのがあって初めて成立するもので、やっぱテレビなんかが出てしまったんでね、映画が持ってる【映画原語】ていうのかな。だから映画っていうのは、もちろん【作品】としては完成するんだけれども、【映画】って形で完成するのは“観客込み”なんだよね。映画はある程度観客に向かって情報の素材を提供してゆく。それを観客が頭の中で自分の経験と絡みあわせたところで全く残らない形で映画館の中でまた作品を作り直せるっていうね。その辺を狙っていく映画を作りたいなと思って。(-中略-)アニメーションという技法そのものはそういうものを作れる可能性を持っていると思うんだよね。」

哀しみのベラドンナ [DVD]

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■アニメスタイルイベント「平田敏夫さんとアニメの話をする会」より(’03年9月イベントレポ)


「『ボビーに首ったけ』の手法は今ならデジタルで簡単にできるという話から、杉井ギサブロー氏が、CGの導入によって、実写なみのリアルな作画ができるようになったことによる問題を指摘していました。このまま、実写に近付けば、どうして実写ではなくアニメを作るのか?という問題が出てくるが、自分としてもそこの解答はまだ見いだせていないとのこと。」

■杉井ギサブロー インタビュー(前編)[再掲]より('04年2月『アニメラマ三部作』DVD発売時収録)


「まあ、僕がやりたかったのは、セックスの造形化っていうのかな。アニメで男女の絡みをリアルにやったってしょうがないじゃないですか。だから、セックスという生理的なものを造形化する。それから動きで内面的なものを表現するという事を、若い時から自分のライフワークみたいに思ってたので、それもやろうと思ったんです。」


「僕なんかは若い頃に、抽象画みたいのをやってましたから。普通にリアルな形を再現する事には、あんまり興味がないんですよ。例えば、ロダンの「考える人」なんか「あんなのじゃなくてもいいじゃないか」みたいに思うんです。あれを抽象的に表現するならどうすればいいか、みたいな事を考えることが好きだった。」


「それから僕はスタジオで映画批評とかを盛んにしてましたからねえ。当時だと「雨のしのび逢い」っていう、ジャン・ポール・ベルモンドジャンヌ・モローの映画があって。僕はあれを絶賛して「あれが映画なんだよ」とか言っていた。一方、「ウエストサイド物語」が大ヒットした時に、バンバン悪口言ってたんですよ(笑)。「あんな映画のどこが面白いんだ。ダンスの技術だって音楽性だって、みんな舞台でできることで、それをフィルムに撮ってなんだっていうんだ。あんなものに比べれば『雨のしのび逢い』の方がはるかに映画的に優れている」とか、そんな話をしながら『ある街角の物語('62)』*1を作ってましたからね。」


「当時、僕は彫刻家のジャコメッティが好きだったんですよ。画の方だとパウル・クレーが一番好きなんです。」(関連:アルベルト・ジャコメッティ/パウル・クレー


■杉井ギサブロー インタビュー(後編)[再掲]より('04年2月『アニメラマ三部作』DVD発売時収録)


「僕が一番興味を持っていたのは、ヌーベルバーグですから。フランスの監督達の仕事が非常に面白くて、影響も受けたし、評価もしてましたね。 」


「山本(暎一)さんはやっぱり映画っていうのは、どこかで決着をつけなくちゃならないという考えを持っていて、僕はそうじゃなくて、決着っていうのは観客が自分でつけるべきじゃないの、と思っていた。物語の続きは、各観客が自分の中で考えればいい。映画ってそういうもんじゃないのって、いまだにそう思いますけどね。映画って、不特定多数の大勢に観せるものじゃないですか。ラストのテーマなり、決着は、観客がつけて完成させた方が、映画が活きる。メッセージなりを監督が伝えるために映画を作っていくと、それで完結しちゃいますよね。確かに観客は満足はするだろうけど、それって1本の映画でしかないんじゃないか。そのラストシーンを観客側が作るとすれば、1本の映画が100本の映画になるんじゃないか、みたいな考え方ですよ。僕はどちらかというと、そっちが好きなんです。」

■杉井ギサブロー×篠崎亨 OB・講師インタビューより('05年「あらしのよるに」公開時収録)


「カメラワークといえばね、映画には“隙間”が必要なんですよ。たとえば雪山の洞窟のシーンで、ふたりの会話から生まれる心情までは絵で描けないでしょう。でも、何度もカメラを外に出して吹雪の情景を見せることで、観客が自分の情感でそこを埋めてくれるわけですよ。それが映画の“隙間”だと思うんですよね。」

■クリエイターサロン・杉井ギサブロー氏インタビューより('05年6月「あらしのよるに」公開時収録)


「アニメの本質的な醍醐味というのは、“止まっている絵を動かして映像にする”ことなんですね。動きというのは、それ自体が伝達しようとする意志の現れ。絵を動かすこと、つまり映像自体が既に言葉を持っている。それを僕は【映像原語】と呼んでいるんです。原作に応じてどんな語り口で、不特定多数の人に作品が物語性や情感を伝えていくか。これは僕の映像作家としての、ライフテーマです。」


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哀しみのベラドンナ』(YouTube@予告編)は現在、ポレポレ東中野で絶賛上映中(劇場サイトはこちら)。上映は1/12(金)までらしいんで、「こんな人が作ってるのか」と興味を持たれた方は是非足を運んでみてください。特に普段アートアニメーションばかり観てるそこの皆さん! 私が観に行ったときは、シュヴァンクマイエルの映画なんかでよく見かけるような20代前半の美術学校系の若い女子が多かったので、アートアニメーション好きなら「所詮、商業アニメでしょ?」なんて倦厭せずに、迷わず観に行ってください! これはあなたたちこそ観るべき映画です!

「はっきり言えば『ベラドンナ』はもっと今の、感覚が尖端を言っているアート志向の人に向けて発信すべき作品で、それには“手塚治虫”の名が邪魔をしているかもしれない。しかし、この作品、手塚色はない、山本瑛一と杉井ギサブローの作品であるとはいえ、こういう作風も確実に手塚治虫の中にある、裏手塚、黒手塚なのである」


『哀しみのベラドンナ』12/16(土)トークより抜粋(@唐沢俊一の日記より)

関連:アニメラマナイト@ロフトプラスワン(唐沢俊一の日記より)



*1:虫プロの第1回劇場公開作品。製作・原案・構成を手塚先生が担当し、山本暎一坂本雄作両氏が監督。ギサブローさんはアニメーターとして原画を手がけている。「手塚治虫 実験アニメーション作品集 [DVD]」に収録。