『ヴィタール』を観た(@アミューズCQN)

観たのは昨年末なので公開はとっくの昔に終わってます。あと2ヶ月でDVDが出るのかな? 客は20〜30代中心に20人ぐらい。


映画の詳細は以前の日記を参照。

んで、感想です。



あらすじに、主人公が「記憶を超えた世界を生き始める」って書いてあったんで『コンタクト』みたいな展開を期待してたんですが、最終的には非常に現実的なところに落ち着いてしまい、それが個人的にちょっとがっかりというか、寂しいな、、、というのが率直な感想。ちょうど生死に関してはいろいろあった時期だったので、「やっぱこうフィクションなら一発ドカンとあっちの世界へ突き抜けて欲しかったんだよ、塚本晋也ぁ!!」といった気持ちを最後まで引きずってしまいました。


実はこの作品、人によって様々な解釈があるようで、人の感想を読むのはとても楽しかったけど、なかなか自分のそれとピタッと一致するものに巡り会えない…。というわけで、ただ感想を書いても「え? そんな話だったっけ?」て思われるのが落ちなので、私の目に『ヴィタール』がどのように映ったのかをまずはつらつらと書き綴ってみたいと思います。ちなみに一部のマニアさん向けに言及しておくと、出てくる遺体(もちろん作り物です。かなり精巧らしい)は、防腐処理されてるだけあって「人体の不思議展」の人体標本と同じ質感*1でした。『死化粧師オロスコ』に出てくる死亡直後の遺体とはもはや別物。防腐処理するとみんなチキンになるんだなあ。



そもそも何故『コンタクト』のような展開を期待したのかというと、、、


以下、『コンタクト』ネタバレ

ロバート・ゼメキス監督の『コンタクト』という作品は、ジョディ・フォスター演じる“宇宙人の存在を信じてやまない天文学者”が、宇宙空間を瞬間移動できる乗り物に乗って別の星にいる宇宙人に会いに行くという“矢追純一っ子”には羨ましすぎる映画でした。しかし劇中、宇宙から帰ってきたジョディの話を、周りは信じてはくれません。瞬間移動の様子を地球で見守っていた人たちにとって、彼女が宇宙で過ごした数分間はほんの1秒にも満たない時間であり、瞬間移動は完全な失敗と受け取られていたからです。「私はよその星に行った。宇宙人と話をした」とどんなに彼女が主張しても、「宇宙人の存在を信じすぎるあまり、幻覚か夢でも見たんじゃないか」と周りから糾弾されてしまいます。でも、乗り物内の様子を移していたビデオには、ノイズだけの映像が確かに数分間記録されており、ジョディと宇宙人とのコンタクトが夢や幻覚でなかったことがひっそりと明示されて映画は終わるのです。。。


現実問題として、宇宙人やUFOの存在は、プラズマといった「自然現象」だったり、幻覚や見間違い、記憶障害といった「脳の問題」で説明がついてしまうところがあって、私自身はプラズマならまだちょっと面白いというか、大槻教授の言うような直径1キロのプラズマがあるならそれはそれで見てみたいんだけど、全てを「脳」のせいにされるのは何でもありな感じでつまらないのです。もし『コンタクト』が「すベてはジョディの幻覚です」で終わらせていたら「糞映画!」って罵倒してたかもしれない。でも、そうはならなかった。ちゃんと信じる者を救ってくれた。ツッコミどころはあるけれど、私にとっては好きな作品です。


ネタバレ終了


死後の世界はあるのか、幽霊はいるのか、魂は存在するのかという問いも、宇宙人やUFOの問題と似ていて、幽霊なんて「脳」が作り出した幻覚、見間違えだとか、「意識」は脳が作り出したものだから脳が停止すれば「無」になるといった具合に、「脳みそ」を絡めればある程度説明がついちゃったりします。人間の脳みそっていうのは実際スゴいシロモノで、信ずれば体に文字だって浮かべちゃうし、無くなった足の痛みを感じることもできるし、集団幻覚だって見せちゃう。でも、全てが頭の中の出来事で終わってしまうんじゃつまらない。私が宇宙人も幽霊も死後の世界も、この世に存在するありとあらゆる不思議なモノを信じているのは、「脳みそ」では説明のつかない世界、人間の力から完全に独立した未知なる不思議世界に存在していて欲しいという願望があるからです。




閑話休題


塚本晋也監督の新作『ヴィタール』は「人の《意識》はどこにあるのか」という問いが根底にあると聞きました。実際それはちょっとした勘違いだったのだけど、観るときはそう思い込んでいたのです。しかもあらすじには、主人公が「記憶を超えた世界を生き始める」と書いてある・・・。もしや塚本版『コンタクト』になるのか!? 本作で監督はついに「意識の世界」の存在を描こうというのか!? そんな期待(先入観)を抱きながら観に行った私にとっての『ヴィタール』は、次のような話でした。


以下、『ヴィタール』ネタバレ


医者の家系に生まれた博史(浅野忠信)は、運転中に事故にあい、同乗していた恋人は死亡。自身も全ての記憶を失ってしまうが、唯一医学書にだけは興味を示し、ほどなくして医学部に入学。解剖実習で、偶然にも、亡くなった恋人・涼子(柄本奈美)の遺体と巡り逢う。涼子の肉体を解剖し詳細にスケッチしてゆくにつれ、彼女と過ごした日々の記憶を取り戻してゆく博史。それと同時に、現実とも幻想とも区別のつかぬどこか楽園のような場所で、涼子と二人きりの甘く穏やかな時間をすごすようになる。記憶喪失の彼にとって、《こちらの世界》すなわち今いる現実世界は、モノクロで無味乾燥だった。世界の存在を確かめるかのように、時折鏡の前で短く声を発し反響音に耳を澄ましてみたりもする。それに比べ、涼子と過ごす《あちらの世界》は全てが色鮮やかで生き生きとしていた。暖かみもある。夢でも幻でもない。彼にとってそれは、まぎれも無く実在するリアル世界だった。こちらとあちら、二つの世界を行き来する博史は、次第に《あちらの世界》が自分の本当の居場所のように思えてくる。もっとあちらにいたい…。そんな思いが彼を執拗なまでに解剖にのめりこませてゆく。何故なら、《あちらの世界》に行ける唯一の媒介者、それが死んだ涼子の肉体なのだ。彼女の肉体の内部を詳細に見つめてゆけばゆくほど、彼女への想いや記憶が引き出され、鮮やかな外界世界が広がってゆく。でも、彼はまだ気づいていない。解剖はいつかは終わる。そのとき、《あちらの世界》は、涼子はどうなってしまうのだろう。。。


死ぬ前の涼子は、いつも憂いを浮かべていた。「自分には速度が無い」と涙を流し、心の生き生きとした部分をどこか別の世界に奪われてしまったような女性だった。逢瀬ではいつも博史と首を絞め合い涙を流す。事故にあう直前、涼子は運転中の博史にこんなことを言った。「どこかに激突したらどんな感じだろう?」 その直後、トラックにぶつかり、彼女だけ還らぬ人となる。献体を申し出たのは涼子だった。死の間際にいた彼女の強い想い、それを受け止めたのは博史の父(串田和美)だった。自分の肉体を博史に解剖してほしいと願う涼子の想いと、博史に医者への道を閉ざして欲しくないという父の想いが一致し、限りなく必然に近い偶然を引き寄せたのだろう。彼女は何故そうまでして自分の肉体を博史に解剖して欲しかったのか。。。


涼子の父親(國村隼)によれば、彼女の目から光が失われたのは高校生の頃だという。それまではとても元気な女の子だったそうだ。事故直後、一瞬だけ意識を取り戻した彼女は、献体を強く希望して息を引き取った。そのときの彼女の目は、失っていた光を一瞬取り戻したように見えたという。《あちらの世界》にいる涼子はいつも明るく朗らかで、生前とは比べ物にならないぐらい生き生きとしていた。光を失う前の涼子はきっとこんな女性だったのだろう。彼女は何故光を失い、そしてまた光を取り戻したのだろう。。。



私自身はこの映画に対し、冒頭で述べたような先入観を持っていたので、「涼子は高校生の頃に心の半分を《意識の世界=あちらの世界》に連れてかれちゃったんだ」とトンデモな解釈をくだしていました。涼子本人はそのことに気づいておらず、違和感を抱え苦しんでいたが、死の淵をさまよったことで、ついに《あちらの世界》の存在に気づいてしまう。本当の私は《あちらの世界》に行ってしまったのか。だから《こちらの世界》の私はこんなになってしまったのかと。これで私もようやく本当の自分を取り戻すことができる…。かつての光を取り戻した涼子が、「なんとか博史に伝えてあげなきゃ!」と思いついた手段が「献体」だった。自分の身体こそが《あちらの世界》へ続く扉だと。涼子から遺体を託された博史は、解剖することによって《あちらの世界》に行った涼子と再会する。《意識の世界=あちらの世界》というのは非常に穏やかで楽園のようなところだった。「私はここでようやく本来の自分を取り戻したのだから、博史はもう心配しなくていいのよ」、そんなことを言って最終的には博史に別れを告げる、、、そんな展開でいくんじゃないかと。



ところが《あちらの世界》に住む涼子のとある言動に違和感を感じちゃったんですね。その後、彼女の発した決定的な一言によって、自分の解釈の間違いに完全に気づいたわけです。なーんだ、行き着く先は結局そこなのかよ。私が頭の中で作りあげたトンデモ世界は脆くも崩れ去り、一気に現実世界へと引き戻されました。もちろん期待もテンションも急降下です。


間違いに気づいた最初のきっかけは、《こちらの世界》に帰ろうとする博史を、涼子が珍しく駄々こねて泣きながら引き止めた時でした。博史が駄々をこねるならわかるけど、既に悟りを開いちゃってる涼子が何故今になって駄々こねるのか。もしこれが仮に幽霊話なら、博史に未練たらたらな涼子が彼を《あの世》に引きづり込もうとしてるんだと解釈できるけれど、正直、回想シーンに出てくる涼子に博史を道連れに死にたいという願望があったようには見えない。何故、突然涼子は駄々をこめはじめたのか。《あちらの世界》に引き止めたがってるのは誰なのか。《あちらの世界》にいる涼子は、本当に涼子本人なのだろうか。。。


決定的だったのが、博史の父親が解剖をやめさせようとした後に《あちらの世界》の涼子が放った言葉。「私、死にたくなかった。一人は怖い」。・・・おいおい、ちょっと待てよ。これはどう考えても涼子の言葉じゃないだろと。これは、博史、おまえの願望だ。「涼子、死んで欲しくなかった。一人は嫌だ。ずっとそばにいたかった」っていうおまえが言わせた言葉だろ。ということは、なんだ、全ては博史の頭の中で繰り広げられてた話だったのか・・・(がっくり)。というわけで、ファンタジックなトンデモ世界から一気に現実へと引き戻されたのでした。


解剖が終われば、《あちらの世界》で涼子と過ごす甘美な日々も終わりを告げる。博史だって無意識下ではそのことに気づいていたはずだ。現実にその日が近づくにつれ、彼の頭の中の涼子も別れたくないと駄々をこねだした。そして親父から解剖中止が告げられたとき、頭の中の涼子は「一人になりたくない」と泣き叫び、最後の抵抗を試みる。博史は《あちらの世界》で暮らすことを決意するが、遺体を取り上げられたことで、頭の中の涼子は儚くも消え去ってしまった。結局、彼の妄想世界は現実を超えることなどできなかったのだ。《あちらの世界》に居場所を無くした博史の帰る場所は《こちらの世界=現実世界》だけ。長い喪の作業は終焉を迎え、現実世界でのスタートラインに立った博史に、頭の中の涼子は「まだまだ生きなきゃ」と背中を押してくれた。懐かしい記憶(?)とともに。。。



結局のところ、物足りなさの一番の要因は、トンデモ世界にいかなかったことより、博史が自分で《あちらの世界》とサヨナラしてこなかったところにあるんだと思う。私には「追い出されて仕方なく帰ってきた」ようにしか見えなかったけれど、「自ら自分を取り戻した」って前向きに受け止めてる感想もたくさんみかけた。もともと博史は涼子とは違うタイプの人間。気持ちの整理さえつけばいつでも立ち直れたんじゃないかと私は思うので、振り返ってみると、手間暇かけた長い喪の作業だったなと。どうせやるなら、火葬してお別れじゃなく、ちゃんと遺骨も拾わせて、肉体が消失し骨になったところまで博史に見せろと思うんだけどね。


ネタバレ終了



浅野忠信って、見た目はだいぶオッサンになってきてるけど、内面がいつまで経っても中学生ぐらいで止まってるので、こういう時の流れから置き去りにされたような役はとてもよく似合うなと思った。外見だけ急速に老化してゆく“中学生”役をいつかやってほしいんだけどなあ。


涼子役の柄本奈美については、バレエやってる人だけあって筋肉のラインがとても美しく、「人体の不思議展」でも一体だけ女性の標本があるんですけど、それを思い出しちゃいました。似てるんですよ、筋肉のラインが。だから選ばれたのかと一瞬思ってしまったぐらい。砂浜で踊るシーンはもうちょっとじっくり見せて欲しかったけど、まあ、それは 舞台を見に行けってだけの話だから映画とは関係ないです。


久しぶりに観た中島陽典が太っててビックリ。でも、この体型もなかなか良かったり。


映画のパンフレットは1500円もするのだけど*2、内容は非常に充実してました。なんてったって、320ページですからね。インタビューや撮影日記、レビューに対談、シナリオまで収録されてます。中でも一番面白かったのは、塚本監督、解剖学者、医学生の3人による28ページにわたるスペシャル対談。繰り広げられるのは解剖実習の裏話。とりわけ諸星大二郎が大好きで『ヒルコ』も観てたという学者先生の話がどれもこれも興味深くて、体の部分でどこが一番怖い?といった話や、解剖を通して自分が人体のどの部分に興味があるのか気づき何科の医師になるのか進路を決めてゆくといった話、献体された遺体のほとんどの人と生前にお茶したりご飯食べたりしたことがあるといった知られざるエピソードがてんこもりでした。知り合いの遺体を実習の教材として教え子に解剖させるってのは、なんとも不思議な感覚だけど、献体に関する不快感が無くなったいまでは、献体する側や引き受ける学者先生の気持ちが割と楽に想像できますね。



次はまた原点に戻って『鉄男3』を撮るって話だけど、『ヴィタール』観た後ではとても意外な感じがします。どういう鉄男になるんだろ?



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【関連サイト】
日本篤志献体協会・献体とは…


*1:わかりやすく言うと、ケンタッキーフライドチキンの肉の部分と同じです。

*2:アミューズCQNに行けばまだ売ってると思います。