「奇跡」を起こすのは・・・

突然だけど、私には好きなものがふたつある。ひとつは(今更改めて言うこともないけど)自分の想像を越えた不可思議な現象。UFO・幽霊・謎の古代遺跡はもとより、ビックリ人間大集合や世界の奇病・奇習、未知なる生物などなど。そしてもうひとつは科学。幼い頃から人一倍探究心が強かった(というと聞こえはいいが単に1を聞いて10を知るという芸当ができなかった)せいか、既知未知にかかわらず、現実世界に存在するあらゆる物の仕組みが科学的に検証・解明され、理論的合理的な説明がつけられてゆく様がとてつもなく好きである。故にこのふたつをドッキングさせた「不思議を科学で解明する」という試みは、人生の潤い、生きる上での快楽と言っても過言ではない。


新たなる不思議現象に出くわしたとき、私はいつもこのような反応をする。

 「へえー! すげーー!(嬉)」(感嘆)
 「いったいどうなってんの?」(疑問)

・・・文字にすると非常にバカっぽくて今ちょっと鬱になったが、<感嘆>と<疑問>、この二つは常にセットだ。


不思議の質がネガティブな場合は、これに<畏れ>が加わる。“ネガティブな場合”と言うのは、ものすごい奇病に冒された人や飢餓や拒食症で骨と皮だけになった人など、生きていられるのが不思議なぐらいひどい境遇・状態の人を目撃したとき。そのときの反応は、

 「マジかよ・・・」(畏れ)
 「なんでこんなことになってるの?」(疑問)
 「でも、すげーなあ。こんな状態でも人間生きていけるのかあ」(感嘆)

最後を<感嘆>で締めるというのはかなりのん気だと思う。本来であればそこに<怒り>や<憐憫>といった感情がくるのが適切なのかもしれない。でも、個別の出来事の向こうに、やはりどうしても人体の底知れぬ生命力みたいなものを見て感じ取ってしまうので、こればかりは「のんきだ」「お花畑系だ」と言われても仕方がない。



最近一番感嘆したニュースは、米テキサス州で起こった<バレンタインの奇跡>。事故で脳を損傷し20年間寝たきりでわずかなアイコンタクトでしか意思の疎通をはかれなかったサラ・スキャントリンさん(38歳)が突然喋り出したという「奇跡体験!アンビリーバボー」な出来事。日本の報道からは、脳の損傷により喋ることが“不可能になった”にもかかわらず突然言葉を取り戻したかのような印象を受けたのだが、本国の記事を読むと、事故から5年後に発話自体は取り戻しており(遠吠えのようで、周囲の人間がその意味を汲み取るところまでは至らなかったようだが…)、そこから彼女の内部ではいろいろな変化が起こり「喋る」という行為に達したことが伺える。


特に興味深かったのは<時間>に関すること。この女性は完全な植物状態ではなかった。にもかかわらず、20年の歳月を3年ぐらいにしか感じてなかったという。来客があればゆっくりとそちらに顔を向け、時折言葉にならない大声を発する彼女。周囲の人間たちは、彼女が何を伝えようとしてるのかそれを読みとることはできなかった。でも一様に彼女が交信したがっていたと感じたそうだ。彼女はいつもテレビを見て過ごしていた。CDが何であるかを知ってたぐらいだから、外界で起こった出来事を(断片的かもしれないが)把握してたといえる。彼女がこの20年間、どんな内的世界の中で暮らしていたのか、それはこれから徐々に明らかになってゆくにちがいない。彼女自身の言葉によって。


それにしても、そもそも彼女は脳のどの部位を損傷し言葉を無くしたのだろうか。損傷した部位が再生されたことにより喋れるようになったのか、それとも脳の可塑性により他の部位が損傷した部位の代わりをするようになったのか。発達前段階の乳幼児期であれば、言語をつかさどる左脳を全摘しても右脳の一部がその代わりを果たすことがあるという話を聞いたことがある。大人になった彼女にも同じようなことが起こったのだろうか。彼女の身に起こった今回の出来事が神の手によってもたらされた「奇跡」でないならば、そこには必ず理由があるはずだ。できることなら数年後に、NHKスペシャ『驚異の小宇宙・人体2 脳と心』のスタッフかこないだテレ東でやってた『サイエンスロマンスペシャル・神秘なる脳』のスタッフに追跡調査をお願いしたい。



人体の機能には未知の部分が多数ある。そこに起こる不可思議な出来事を「奇跡」の一言で思考停止したら、それはほんとにただの「奇跡」で終わってしまう。しかし、ある特定の条件さえ揃えば誰にでも起こる「必然」だとしたら、それは「奇跡」より遥かに素晴らしい。


やっぱり私は、「奇跡」より、人体が持つ「底力」や「未知なる可能性」をまず初めに信じてあげたい性分なのだろう。それは裏を返せば・・・裏を返せば・・・・・・。続きは思いついたときに。