『ユダ』『ともしび』を観た(@ユーロスペース)

観てきました。さすがエロス番長だけあって、年齢層が高い。どちらの客層も9割方男性で30代から50代ぐらい。入りは『ユダ』が30〜40人ぐらい。『ともしび』はトークショー付きということもあり満席でした。


映画の詳細は以前の日記を参照。んで、感想。



観た順で書こうと思ったんだけど、ちょっと無理なので、書きやすい『ともしび』から。


『ともしび』(監督・吉田良子)
もっとフェティッシュな感じでくるのかと思いきやそうでもなく、遠藤雅と蒼井そらの絡みは割と大胆にどーんと撮っていたけど、主役である河井青葉の方はなくても良かったかなと。彼女は脱ぎより妄想の中で恍惚としてる方が似合ってる。『ともしび』なんてほんわか儚げなタイトルは大うそつきで、力強いし、とにかく笑える。「エロス番長」というよりは「ワラ番長」であり、厳密には「ホラー番長」に入れたい作品でした。河井青葉演じる主人公は、あの手この手を使って好きな男に近づくのだけれど、彼の視界に入ることだけはどうしても出来ない。壁越しに彼の存在を感じるだけで満足し、それ以上のことになると極端に臆病になる。他の女に獲られて初めて自分のやってきた行為の虚しさに気づくわけだけど、「気づく」ってことが、彼を喪失した闇の世界で見つけた彼女にとっての希望の“ともしび”なのかなとタイトルを見て思った。周りを照らせば、いくらでも彼女のことを気にかけてくれてる人はいるのでね。


全般的に軽快なテンポでパッパッと話は進み、電車の中吊り広告を貼ったり書籍にスタンプ押す時のような時折見せる一定のリズムがなんとも心地よかった。アメリのような笑顔で、好きな男が暮らすマンションの隣人に次々といやがらせして追い出してゆく河井青葉。面白さと恐さの根源は彼女の動きによるところが大きく、監督によれば、元々彼女は身体が固くてどこか動きがぎこちないのでそれを生かしたら見た目のギャップとあいまって面白いかもと演技をつけていった結果こうなったらしい。長い黒髪にスレンダーな身体、折れそうなほどに細い腕、それを強調するような真っ黒な服着て動く様、佇まいはまるで伽椰子か貞子のよう。最初はただ笑える作品だと思ってみてたけど、彼女がアパートの部屋の前で細い腕をすーっと伸ばしドアノブに手をかける横からのショットを観た瞬間、ビビッと自分の中のオカルト回路につながってしまった。それ以降はもうダメ。ビデオ版「呪怨2」のような絶妙なバランスの中で繰り広げられるストーカー行為、いやがらせの数々に、「上手いなー、この監督いけるぞ」と、エロスとは全く別の方面でわくわくしてしまいました。もちろん監督はホラーを撮ってるつもりはさらさらないんだろうけど、河井青葉が蒼井そらをつかまえあの身長差でにじり寄るシーンも怖いし、遠藤雅の痕跡に寄り添うシーンなんて、いないんだけどいるんだよそこに、遠藤雅が! 切り替えや動きのつけ方、間、動き出しのタイミング、どれをとってもバツグンなので、是非一度短編ホラーを撮って欲しいです。できれば、“淵さん”(伊藤潤二闇の声』登場時)のような佇まいをもった身長2m以上の女幽霊もので宜しくお願いします。切願。



『ユダ』(監督・瀬々敬久
率直な感想としては、いまひとつ乗り切れなかった。なんかもやもやする。理由はいくつかあって、簡単に言っちゃえば、美智が鬱陶しい、ユダの物語がもっと見たかった、16歳という区切りに意味はあったの?てとこだろうか。頭の中で発酵させすぎてぐだぐだな感想になっちゃいましたがご勘弁下さい(ぐすん)。


以下、ネタバレ


タイトルからも分かるように、本作では<ユダ>という人物を中心に物語が展開されてゆく。性同一性障害のユダ(本多一麻)が、ドキュメンタリービデオの制作をしてる<私(光石研)>と出会い、彼のビデオカメラを持って失踪。その後ユダは一人の少女と出会うが、彼女が携帯を残し姿を消したため、実家だと言ってた豆腐屋を捜し旅に出る。その道中で、DV夫から逃けてきた生まれつき片足が不自由な女・美智(岡元夕紀子)や、頭に鉛玉くらって(?)知的障碍者となったチンピラ青年・タイチ(三浦誠己)と出会い楽しいひとときをすごす。そして最後に辿り着いた豆腐屋でようやく少女を発見、連れ出そうと豆腐屋の主人ともみ合ってるうちに重傷を負い、タイチに介錯されて天に召されるまでを描いた物語。これに16歳の少女が殺されたとある事件が絡んでくるのだが、いまは置いておく。


この物語にユダの視点は入らない。語り部となるのは、一時期ユダに愛情を注ぎ、共にすごした<私>。彼のナレーションと彼が撮る手持ちカメラの映像で物語は進み始める。でも<私>が知ってるのは失踪前のユダだけ。自分の前から姿を消しタイチに殺されるまでの空白の時間に何をしていたのか、、、それを教えてくれるのは、ユダが持っていったビデオカメラの映像だったり、ユダ殺害事件を担当した警察、弁護士、そして死の直前まで行動を共にしていた美智からの証言だった。彼らの証言を基に、<私>や美智の視点で、死ぬ前のユダの行動が回想されるわけだが、この美智がくせ者だった。


美智という女、これがどうしようもなく鬱陶しい。自分で「わたし、バカだから」とか「わたし、人をいらいらさせるみたいなの」って言っちゃうような人。なんかどっか媚びていて、言葉や態度の端々で「わたしを見て!」って“かまってちゃん”オーラを出してくる。ユダのことが知りたくて<私>のもとを訪れたのかと思いきや、そうじゃない。ユダの代わりを探しに来ただけ。<私>と出会い、彼とだったらユダを知るもの同士、ユダを好きな者どうし“繋がれる”と思い込んでる。<私>は、ユダが死んだ理由を知りたくて彼女にかまってるのに、美智は延々と自分語りを始める。普通だったら、綺麗な女性だし、可哀想な境遇を聞かされるうちに同情から愛情へ、ユダのいなくなった穴を埋め合うかのようにいつしか二人は恋仲に、なんてことになってもおかしくないけど、そんな展開にはならない。いや、最終的には付き合うんだけど、そんなロマンチックなものとは違う。美智の鬱陶しさ、徹底ぶりに根負けしたって感じ。彼女に対しては同情も共感も湧かないが、劇中、「自分の障害を“売り”にしてないか?」と<私>から指摘されるぐらいだから、この鬱陶しさは作り手の確信犯なんだと思う。美智がDV夫の元に居た頃のことを回想するシーンで、美智の独白を時間差で<私>が復唱するんだけど、「わたしはバカだから」といった自虐的な言葉を何度も繰り返すうちに、<私>が美智より先に彼女の台詞を言ってしまう状態が続く。本当は美智が言った言葉なのに、<私>が言った言葉を美智が復唱させられてるように聞こえて、どんどん美智が追いつめられてゆくように見える。早く否定しろ!とイライラしてくる。美智は子供の頃から、周りの人間にバカだバカだと言われ続けてきた。自分で自分のことを「バカ」って言うのはいいけど、人から言われるのって、たとえ「いいの。わたし、バカだから」と割り切っていたとしても、本心では傷つくしイヤなものだ。でも美智は、ユダやタイチに「バーカ、バーカ」と連呼されても、笑ってただそれを聞いている。そういうところが鬱陶しい。



美智を鬱陶しく感じるのは、言動もそうだけど、あの“瞳”に原因の一端があるように思う。こっちを見ていても何も映ってないような…。ユダの話をする時も自分の話をする時も、夢の話をしているようでふわふわと現実感がない。かまって欲しいクセに、内面に踏み込もうとすると、かわす。曇りガラスのようにもやかけて、「バカだから平気なの、痛みとか感じないの」と言っては心の内を覗かせない。悲しみや苦しみ、辛さ悔しさといった、観ているこちらの同情を喚起させるような感情の発露が垣間見えればいいんだけど、、、よくわからない。見えそうで見えない。強がってるだけなのか? 人をいらつかせて面白がってるのか? どれも微妙で、なんかどっか欠けてるというか歪んでいるというか、自分の中だけでグルグルグルグル回ってる感じ。ユダのこともほんとに好きだったのかどうか…。豆腐屋の娘探しに強引に付き合わせるユダに対し、美智は最初怯えていた。しかしユダが弱さを見せ始めると、怯えは憐憫へととってかわり、彼が女だとわかった瞬間、美智は喜んだ。生まれつき片足が悪くて、そのことで小さい頃からいじめられて、いや、たぶん虐められていたのは足が悪いからじゃなくて美智本人の問題が大きかったように思うんだけど、ユダが女だと分かった瞬間、「この人は自分と同じだ」と思って喜んだんだ。同じハンディを抱える者どうしなら“繋がれる”と思ったんだ。でも、それは美智の思い込みで…。ユダにとって関心があるのはいつだって豆腐屋の娘だった。美智じゃない。だから、気の合うタイチが現れ豆腐屋探しが佳境に入ってくると、美智はどんどん蚊帳の外に置かれていった。映画のラストで、せっかく付き合ってくれた<私>から離れていったのも同じような原因だったんじゃないかと思う。美智は、ユダが二人を繋いでくれると思ったけど、ユダの中に豆腐屋の娘しかいなかったように、<私>の中にはいつだってユダしかいなかった。美智はユダの代わりにはなれないし、<私>もユダの代わりにはなれない。付き合ってみてそれに気付き、美智は自ら<私>の元を離れていったんだと思う。でも、何故代わりにはなれないのか、その理由に辿り着かない限り、美智はいつまでも同じことを繰り返し続けるのだろう。


ユダのことをずっと追っていたにもかかわらず、彼の本質的な部分についてはよくわからなかった。ユダの視点がない上に、<私>や美智の関心がそこに向かないから、いったい彼が何に悩み、何故あそこまで豆腐屋の娘探しに執着したのかがよくわからないまま終わってしまった。<性同一性障害>って言葉がくせ者なんだよな。この言葉ひとつで説明された気になっちゃうんだけど、なんか違う。ユダは肉体的には女性。性同一性障害というなら、脳みそは<男>ってことだ。それなのに男とヤリまくるのはおかしいし、女とヤルときだって“受け”みたい。<自傷>って感じでもないんだよな。<確認>の方がまだ近いか。自分が男なのか女なのか、それすらも決めかねてる、どっちつかずな状態。でも、性同一性障害に悩んでるって感じでもなかったり。演じてる本多一麻は正真正銘、性同一性障害に悩む肉体的には女性の男性。以前に放送された本多一麻に関するドキュメンタリーでは、子供の頃の水着写真を見せるのすらも嫌がってたんで、本作で全裸を晒してるのを観たときは「よくやったなあ…」と感心したけど、まあ、役者だからね。番組で彼のマネージャーが言ってた言葉*1からすると、女としての自分を直視することは、彼が役者として一歩前に進むためにも必要なことだったんだと思う。ま、それはそれとして、ユダと<私>、もしくはユダとタイチのじゃれあってるシーンは結構好きなんですよ。暗い本作において、唯一心なごむシーンであり、屈託無い様がいつまでも見ていたという気分にさせる。このままの関係が続けばなあと思う。ユダは、美智と二人きりでいる時より、タイチや<私>といる時の方が圧倒的に魅力的。全てが素のままで自然だし、男陣でじゃれ合ってるときの方がよっぽど男の子っぽい。無理がない。だから、終わってみると、ユダと<私>、ユダとタイチの青春物語をもっと観たかったなあって、観たかったなあって思った。<私>と一緒に飯食ってるときのユダの顔、ラストでユダの撮ったビデオを見てる時の<私>の顔が忘れられない。彼らのじゃれあってるシーンがあるから、救いのない感じにはならない。


豆腐屋で負傷したユダがタイチに連れてこられ最期を迎えたのは、一本の木の下だった。ユダはその木にもたれたままタイチに殺され、痛みと苦しみから解放してもらった。言葉は何も交わさなかったけど、あの瞬間、ユダとタイチはちゃんと通じてたと思う。“木の根元で人が死ぬ”というシーンは『アナーキー・イン・じゃぱんすけ』を無条件に思い出させてくる。大きな木の下で赤ん坊を抱きかかえた佐々木ユメカの姿がフラッシュバックするんだ。だから、ユダは大丈夫だと思った。木の根本で死んだのだから、大丈夫。ここで死ぬけど終わりじゃない、ここからまた始まるんだって思える。ユダが美智の車に轢かれた時も一本の木の下だったけど、ほんとはあそこで死んでたのかも。というか、この時に既に『アナーキー〜』がフラッシュバックしてたから、ユダが木の根本に連れてこられた時、「ああ、やっぱり」って思った。


本作では、ユダの話と平行して、いくつかの殺人事件についても語られている。どれも実際に起こった事件であり、どの事件も16歳の子が絡んでいる。そのうちのひとつが、ユダの探してた豆腐屋の娘に繋がるんだけど、なんか無理矢理帳尻合わせしたような気がして、ある結末に向かって全てが収束してゆくいつものようなダイナミズムが感じられなかった。「16歳のときどうしてた?」という問いかけは、『トーキョー×エロティカ』における「生まれる前の時間と死んだ後の時間ではどちらが長い?」と同じ立ち位置にあると思うのだけれど、映画全体を通しても、街頭インタビューで得られた答えからも、16歳に拘る意味、16歳であることの必然性というのは伝わってこなかった。とりあげたいくつかの事件は、16歳の子が関わった事件としてたまたま目に付いただけで、そこに何らかの繋がりを見出そうとするなら、もう少し掘り下げが必要なのでは。放り出すなら放り出す、つなげるならもう少し掘り下げる、どちらかにしてほしかった。ユダやタイチが16歳だったら、また印象も違っていたのだろう。そもそも、あらすじ読んだ時点で真っ先に思ったのが「なんで、16歳?」ってことだったんだよね。中途半端というか、14歳や15歳に比べると、いまひとつピンと来ない。自分にとって16歳って年は、10代の中でも特に明るいイメージ。受験地獄から解放されて、就職や大学進学もまだまだ先の話。新しい学校、新しい友人、新しい環境にもようやく馴染んできて、今だけ見ていればいいぞって頃。そういった自分の見方に疑問を投げかけるような真実が何か見えてくるのかと思ったけど、何も・・・。


ネタバレ終了


撮影を担当した斉藤幸一氏は、同日上映となった『ともしび』(監督・吉田良子)でも担当しており、同じ日に2作立て続けに見比べる形になったわけだけど、監督変わるとやっぱりちょっと印象違うなあというのが率直な感想。公式にUPされてる写真では似てるんだけど、監督の出す味の方が強かった。それでも風景シーンはカメラマンお任せなのかなと思ったり。斉藤さんは奥原浩志監督の『青い車』も担当してるそうなんでこちらも楽しみ。瀬々×斉藤コンビっていうのは、これまでにすんごい画をいろいろと撮っているんだけど、今回はDV撮りだったり彩度が低く色味も極端に偏ってたせいか、質感自体が薄いというか粗いというか。全体的に画面がゆらゆらと揺れていたので、それには合っていたように思う。「空がやけに青かった」って言うとこはちゃんと青くしてほしかったかなと。それでも、山村のシーンなんかは瀬々作品ならではというか、山や廃墟をバックに人物を中央に配したりすると、色や質感関係なく、圧倒的存在感で風景が人物飲み込んでくるから不思議だ。廃墟はそれ自体が力持ってるからまだしも、例えば、高台のような所で、車を降りた美智が山の木々をバックにフラフラと背を向け歩いてゆくシーンなんかでも見られて、なんだろうなって思っちゃう。瀬々さんによると「自分は<場>を探してくるだけでこっから撮ってくれとは言わない。あとは斉藤さんにお任せ。だからカメラマンの気持ちを盛り上がらせるような<場>を呈示できるかどうかが勝負」ってことなんだけど*2、じゃあ、斉藤さんと組まない時は全然ダメなのかっていうとそんなことはないわけで…。監督とカメラマンの関係っていうのは、凡人には計り知れないものがあります。 


今回の脚本を書いたのは、映画美学校出身の新人・佐藤有記。彼女が美学校時代に書いた脚本に、瀬々監督のアドバイスで様々な要素が付け加えられて完成したそうだ。監督とはこれが初タッグということになる。瀬々さん曰く「第二の井土紀州に育てる」とのことなので、これからも当分コンビは続くそうなんだが、悲しいかな、これまでに観た瀬々作品の中で本作が一番自分には合わなかった。元の脚本は『豆腐屋☆幻走』というタイトルで、ロードムービーしながら豆腐屋を次々と襲撃する話だったらしい。それは割と好きな感じ。食い合わせがマズイだけなのか…。次のピンク映画でも脚本を書いて貰うとのことなので、それに期待したい。まあ、そもそも自分は携帯なくても生きていける人間なんで、そこからして既に今回の題材とは合わなかったんだろう。。。

*1:男役をやらせてもらえないことに苛立つ彼に対してこう言った。「男の役者がいるのに、あえて彼を男役として使う理由がない。そのことを理解できないうちは難しいだろう」

*2:雷魚』DVDの特典映像で語ってるんだけど、初めてこれ聞かされたときはショックでしたよ(笑)。